2020年08月23日

鉄の産地だった猪苗代湖南地域 (葦から鉄が作れたー会津にアラハバキ神社がある-梓 今来の謎)


鉄の産地だった猪苗代湖の湖南地域

(葦から鉄が作れたー会津に荒巾木神社がある-梓 今来の謎)


●猪苗代湖の湖南(福良)から製鉄地名が多い

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湖や湿地に生える、葦などイネ科の植物の根に形成される褐鉄鉱を原料とした製鉄が、既に弥生時代には行われており、後に砂鉄を取り込みながら、古代会津は製鉄の一大生産地を形成したという私見だ。

そして、大陸から直接会津へ伝えられた仏教である高寺の評判を聞くにつれ、堕落した南都から迷わず東国へと旅立ったのだ。

ところで、この鉄の一大生産地の基盤がつくられた時期は、青巌の会津入りの前にさかのぼるはずだ。

そこで注目すべきは、赤井の「荒脛巾神社」、笹山の「須佐乃男神社」、東田面の「金砂神社」なのだ。
萩生田氏は、「それぞれ津軽、出雲、加賀を本拠内とした製鉄集団」とした。
ここでは本拠地を云々する必要はなく、日本の各地から製鉄の技術を持った集団が、猪苗代湖畔に集結したことこそが重要である。


古 代・褐 鉄 鉱 製 錬 の 可 能 性
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古代会津の渡来系集団−「梓 今来」・「秦人」− 菅原祥夫


鎌倉時代の初め頃までは、「大和朝廷が支配する国」と、「出雲王朝の流れを汲む【和】の人たちの国」があり二分していたようです。

【和】とは「出雲の国譲り」のあと、畿内から遠い九州あるいは東北方面に逃れた人々の国で、東北に安住した者は蝦夷(えみし)と呼ばれ、九州に安住した人は隼人(はやと)と呼ばれるようになりました。

 アラハバキ神を祀っている神社の一つとしてさいたま市大宮区の氷川神社が挙げられます。 
 「氷川神社」社伝には、『成務天皇のとき、夭邪志国造である兄多毛比命が出雲族をひきつれてこの地に移住し、祖神を祀って氏神とした』とあります。

出雲族だった兄多毛比命=「夭邪志国造」は埼玉古墳群の豪族です。



 
 日本の歴史をみるときいかに鉄生産というのが大事だったかである
鉄と稲は深く関係しているのは稲荷神社があるとしたら稲の神社ではない、稲荷は鋳成りであり鉄を成る、鉄を作るという意味である
そのことで私の住んでいる南相馬市の真野の草原の万葉集の歌はやはり鉄生産と関係して渡来人がツノガノアラシト(伽耶の王子)が来た跡をたどった
伽耶(かや)は鉄の一大産地であり製鉄技術をもっていて栄えた、金管伽耶というときまさに金管の鉄の国だったのである
その同じことが会津にもあった、鉄を求めて渡来人であれ大和であれ会津に最初来たのである
ただ会津というときまだわからないし調べていなかった、インタ−ネットで猪苗代湖の湖南に興味をもって検索しているとここでも鉄をとっていたのかと不思議だった
ここのどこに鉄があるのか?それが理解できなかった
浜通りなら海に砂鉄がある、ただ調べると山でも鉄がとれる、日本は火山国であり鉄が豊富にとれる場所だとされている
それで葦から鉄がとれるということに驚いた、それを説明しているサイトがあったからそういうことがあるのかと猪苗代湖畔の地名を見ると鉄に関する地名が多かったのである

吹屋山、金堀、笹山原、笹山、赤井、赤崎、金山、福良赤津 とかある
福良にある秋山も秋は製鉄に関係しているという
これらはみな製鉄に関した地名なのである、赤とはいかにも鉄が錆びた赤なのである
吹屋山とはフイゴで風を送り熱して鉄を作る場所である
福良赤津とは福良(ふくら)とは吹くでありフイゴを吹くかもしれない
また葦から鉄分をとっていたというとき良し悪しという言葉もその鉄の成分の良し悪しを言っていたのかもしれない、鉄生産に関する用語でも地名も多いからである

スズ鉄と言ってね、葦の根を焼いて精製して、鉄を作りよったと。」
るな 「え〜?葦ってあの植物の葦ですか?水辺に生えている。」
光さん「そう。これで作った鉄は固い。しかし、戦うと折れてしまうったい。
     草薙のつるぎがそうたい。


だからこの辺一体が会津でも鉄を求めて渡来人とかが出雲からでも越からでも来たのである  

猪苗代湖の北(猪苗代町三ツ和)には出雲神社がある。社殿は猪苗代湖を向き、後方には雄大な磐梯山が控える。
会津では、赤井のほかに、会津若松市北町に「荒・あらはばき)神社」がある。


そもそも出雲自体が鉄の王国であり鉄によって作られた国であった
その鉄をねらって大和朝廷が襲ってきたとなる
人間は何もない所には来ない、今の様な観光などしない、何か目的があって移動してくる黄金をもとめてゴールドラッシュがあり人々が遠くからも一攫千金をもとめて移動してくる、古代でも黄金がみちのくの湧谷でとれたというとき奈良の都ではその黄金を使い大仏に鍍金したのである、それで万葉集の歌が残された

天皇(すめろぎ)の御代栄えむと東なるみちのく山に黄金(くがね)花 咲く

つまり黄金があってこそ大和朝廷の人たちもその黄金が欲しくて遠くまでやってきたのである、真野の草原(かやはら)も鉄のとれる場所として知られたのである
また蝦夷征服の境界の地となっていたから知られたのである

●荒巾木神社(アラハバキ)の由来

会津もやはり鉄がとれる場所として出雲から吉備から奈良から渡来人から来たのである
飯盛山でも(飯)は(鋳る)で溶けた鉱物であり飯盛には鋳か盛(さかる)の意味がある飯豊山(いいで)とかもそうである、飯でいいとつくのは鉄と関係した山である
こういうふうに鉄と関係した地名とか山名が多い、それはどれだけ鉄を求めていたかという証明なのである

そして猪苗代湖の湖南地域を赤津の辺りに「荒巾木(あらはばき)」神社があった
この荒巾木神社はアラハバキは有名である、出雲の地主神とかされるしもともと東北でも関東でもあった、氷川神社の基はこの荒巾木神社だとしている
でも神社として残っているのは少ない、実際にこれだけ語られているのに神社として残っているのは私はここではじめて見た、ということはこの地域はいかに鉄をとる場所としてあったかを証明しているのだ
荒とは何か、これはツノガノアラシトのアラであり韓半島の安羅国から移住した渡来人なのである、相馬地域になぜ荒姓が多いのかというとその系統だともなる
そしてアラハバキのハバはなになのか?
憚る(はばかる)とかあり屯するとか遮(さえ)ぎるとかの意味と同じである
それで茨城(いばらぎ)があり佐伯(さえき)がありそれは塞ぐ(ふさぐ)の意味であり憚る(はばかる)と同義語である
つまり渡来人の集団がはばかる場所だったとなる
要するに大和朝廷側から大和族から征服しようとししたとき茨城とか佐伯とかアラハバキとか名付けられたのである、邪魔な存在としてそういう名がついたのである

会津磐梯山は宝の山よ
笹に黄金がまたなりさがる

まさにこれは宝の山とは鉄がとれる山のことだった、笹とは鉄のとれる場所である
それで笹山や笹原がある、この辺一帯が濃厚な鉄に関する地名が多いのである
ただ葦から鉄がとるとなるとこれは相当な技術であり簡単にはできない、ただこうして鉄をとれたとなるとそれは驚きであり崇拝されたともなるのだ
そういう技術力がありそれで渡来人が力ももったのである
今の外国人労働者とかなるとそうした技術をもっていない、ただ下働きしかできないのとは違っていたのである

とにかく古代史は鉄からその謎が解くことができる、会津の古代でもそうだったのである今来と記された木簡が発見されたことでもそうである、秦人とは何ものなのか?

●秦人はシルクロードの弓月国までたどる

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隋の煬帝、気を取り直したのか、この次の年、裴世清(はいせいせい)という役人を返礼のために大和朝廷に派遣しています。
この裴世清は、瀬戸内海を航行し大阪の難波(なにわ)に上陸しているのですが、
途中、「秦王国があった」という記述を隋書東夷列伝に残しています。これは、「秦人(はたびと)の町があった」、「あるいは秦人が話す中国語を話す
人々の町があった」と解釈することができます、この町は、下関あたりにあるというのが定説です。 

秦氏は中国のウィグル地区にあった、中東と関係してユダヤ人説とかでている
この弓月の不思議は「梓 今来」・「秦人」と会津の郡衙跡から発見された
梓とは弓にするのにいい硬い木である、それで梓弓ということで枕詞になる
それで弓月国から秦氏が来たとするとこれと関係しているのか?
梓弓今来なのかもしれない、ただこういう遠くから来たということも謎である

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なぜか日本の古代史はアジア史にもなり世界史にもなる不思議である
それだけ日本が国として成立していないとするといろいろな民族でも入り安かったからだとなる、国ができあがればなかなか入りにくくなるだろう
そして国造りのためにいろいろな渡来人を招き入れたのである
その人たちは製鉄や養蚕とかの技術をもっていたからである
今の外国人労働者にはそういう人たちではない、だから下働きにされているだこけだとなる

今から2200年前,日本が縄文時代から弥生時代へと変わろうとしていた時、秦(秦氏が作った国)の時代(紀元前3世紀頃)の中国に徐福(じょふく)という人物がいました。 
徐福(秦氏)は中国の秦朝の方士(ほうし:呪術師であり、医薬、天文、他の学問にも精通)で、斉国の琅邪郡(現・山東省臨沂市周辺)の出身で、別名は徐](じょふつ)と言います。 徐福の出身地は、斉国ではなく、越国だという説もあります。 

秦氏の渡来について、『日本書紀』 巻第10「応神紀」に記載があります。

「十四年二月春、百済王が衣縫工女(きぬぬいおみな)を奉った。・・・・・その年、弓月君(これが泰氏)が百済からやってきた。奏上して、「私は私の国の、百二十県の人民を率いてやってきました。しかし、新羅人が邪魔をしているので、みな加羅国に留まっています」といった。それで速やかに新羅に行って、弓月の民を救出した」と記しています。

魏志」において「辰韓人(秦韓人)」と記載されているのです。

ここで言う「弓月の民」とは西アジア地域につながり、最終的にはイスラエルのダビデ王族の血統を引き継ぐ一族に辿り着く可能性さえあるというのです。

ご参考だが、イラン系白人のサカ族は「月氏」と称されていたのです。

奈良市の平城宮跡から出土した8世紀中頃の木簡に、ペルシャ(現代のイラン付近)を意味する「破斯(はし)」という名字を持つ役人の名前が書かれていた


秦の始皇帝は何人なのかとかなると明らかに西方系統だろう、秦国は最初は小国だったけど西の文化や人を取り入れて巨大化して中国最初の統一国家を作った
兵馬俑はその力をまざまざと示した、そこにはギリシャ文化の彫塑の技術とか二輪馬車とか技術が西から入ってきたのである
つまりそういう位置にあったことが技術力になり巨大な中国を統一できたとなる
地理がやはり歴史の基本としてある
秦の基は弓月国にもあり西から来た人たちが中枢となり建国したとなる

そしてイスラエルとかキリスト教(景教)が伝播したというとき意外とシルクロードはイスラエルまで通じている、イスラエルに行った時、そこは半分は砂漠でありそれでラクダとともに泊める商人宿があったりする、そこがキャラバンの終着点にもなっていたのである、イスラエルは半分は砂漠でありそこにユダヤ人が入って入植して豊かな土地にしたのである
イスラエルは遊牧民の国家でもありだからこそシルクロードでも通じるとなりキリスト教を秦から秦氏からもたらされたということは空想ではないのである
ただこれだけスケールが大きいとイメージするのがむずかしくなる
私自身はシルクロードで敦煌に行きイスラエルにも行ったからなんとかイメージできるがでもシルクロードがいかに長いかそれを知ることはできない
とにかくその間に長大な砂漠がありそのスケールが大きすぎるからである 

日本へは呉があり呉服となった、越国があり日本海に高志国がある、越と中国の越から来ているともなる、そこは今の上海とか蘇州である、蘇州は仏都であり塔が多い古都であるそして越の国になるのか寧波はニンボーは道元がここから修行するために天童寺にここから運河をたどり行った、だから呉であれ越から日本へ渡るということはここからあったのである、呉はまた呉れる(暮れる)と地としてみた、陽の沈む所にあるからそういう字を当てた

日本の古代史は世界史的になる、なぜイスラエルまで関係しているのかとなるとそれもこのように根拠があってそう言っているのである
中国には三回行ったからなんとかイメージできる、ただシルクロードとなると広すぎでイメージできなくなる
ただ不思議に弓月国というと砂漠の国の旗印は月と星なのである
それはなぜかというと砂漠では方向が一番大事なのである、だからこそ星を見て方向を決める、北斗七星とか北極星が目印になり方向を見る
それで相馬氏でもその信仰するのは妙見でありこれは北斗七星のことであり星印の紋所なのである,中国の文化は遊牧民の文化と農耕文化が合体したものであり最初の始皇帝は馬で騎馬隊で中国の統一国家を建国したように遊牧民が主体になっていたのである

この遊牧民がフェニキア人のように航海の民となったというのもうなづける、やはり船で航行するのに一番大事なことは方向だからである、海で目印になるのは星だけだからである、方向を間違ったらどこに行くかもわからなくなるからだ
まだ羅針盤などがないからである、砂漠でも迷うが途中オワシス都市がありそこをつないでいけば遠くに行ける、海では島があるがそれも不明であり方向を間違うとどこに行くかわからなくなる






posted by 老鶯 at 15:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)
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