磯部村の寄木神社の謎(津波の伝説を調べる)
磯部村の寄木神社の石段
今から300百年程前の江戸時代に、浅羽海岸を中心に大津波がおき、海岸周辺の集落は大打撃を受けました。この地方の殿様から、町の人たちを助けるよう命じられた役人が、海岸(現・浅羽町中新田)を歩いていると、神々しい光を放つ木像の観音様が打ち上げられているのを見つけ、拾って帰りました。
ゆめごこちのまま、海岸に流れついた木(こ)っぱの山を見つめていると、その上に、おさないわが子の無事(ぶじ)な姿(すがた)があったのです。そして、その木っぱの下には、一ぴきの大きな亀(かめ)が死んでいました。子どもとともに流されたつまが、亀になってわが子を助けたのでしょう。いつもつまや子どもをだいじにし、いっしょうけんめい仕事にはげむ青年の願(ねが)いを、神様がきいてくださったのでしょう。
青年は亀をていねいにほうむり、そこに一本の松(まつ)を植えました。
亀の松(袋井市)これも浅羽海岸の津波の伝説
この神社の名称となっている「寄木」とは、海の彼方に実在すると考えられていた常世(天国・浄土)から、神仏の依代(よりしろ)として流れ着いた霊木のことである。太平洋沿岸には漂着した寄木を祀る神社が特に多く見られる
熱海(あたみ)来宮の七月十六日の例祭に、古来行われていた鹿島踊の記録は、かなり精密なものが『民俗芸術』三の八に報告せられている。附近の幾つかの村のも是に準拠したものか、歌の詞ことばなどは互いによく似ており、俚謡集に出ている次の安房郡ものも大同小異である。
ちはやふる神々をいさめなれば
みろく踊のめでたし
まことやら熱海の浦に
みろく御舟が着いたとよ
ともへには伊勢いせと春日かすがの
中なかは鹿島かしまのおん社やしろ 云々
海上の道 柳田国男
磯部の寄木神社の由来は全国にも共通している、海に囲まれた日本だからこういう物語が生まれた、物語でもそれは実用的なものがあり空想から生まれたのではない
つまり歴史でも伝説でも事実があり人間が生きて経験したことから語られる
全くの空想など小説にもない、そこには何かしら必ず経験されたことが伝えられている
海となると海にまつわるものがあり海彦山彦の物語が生まれる、それは綿津見神社と山津見神社がありそこから安曇族が全国に海を通じて渡ってきて未開の地を開いた物語がある相馬地域に本当に綿津見神社と山津見神社が多いのかそのことが神社として残っていてもそれにまつわる伝承がないのも不思議である
伝説とか伝承とかが歴史の前にある、歴史は文書化するとそれに頼る、その前に伝説と伝承が口碑として伝えられた、それを掘り起こしたのが柳田国男だった
まず寄木神社の由来は海の寄り物がありそれが由来である、木でも海岸に流れ着く
去年の洪水では海岸に木が多く流れ着いたことには驚いた
川からも木は海岸にながれつく、するとその木を炊きものとして燃料として利用する
海にはまたいろいろなものが漂着する、人間すら漂着する
つまり海から來るものが日本に多いのは当然なのである、海に囲まれているから当然そうなり、海のかなたに理想の国がニイラカナがあるという弥勒信仰が起きる
だから寄木から弥勒菩薩が現れてそれが神社の基として祀られるのも自然だとなる
海から福と富がもたらされる、海を伝って異人でも中国からでも韓国からでも渡ってくるからである
そして日本ではその入り口として津が大事だった、津(つ)とはつづく、つづる、つたえるとかなりきづなは木綱であり何か海から流れてくるものによって絆が結ばれていた
木と綱だということもそうした漂流物と関係して生まれた言葉なのかともなる
つなはつなぐにも通じるからである、海は外と内を結ぶものとしてあった
それで津波のことを津(つ)になったのは津波はつづいて波が押し寄せるからだともしている、つはつづくだからである
この検索で注目したのが津波が遠羽海岸に木像の観音様が打ち上げられたという伝説である
するとここでは津波の伝説が語られていたとなる、確かに津波があったこととして伝えられている
この辺でこれだけの大きな津波がありそのことを探求して来た
でも不思議なのは400年前に慶長津波があり大きな被害があった
でもその記録は相馬藩政期に二行だけ700人溺死と記されていただけだった
それも津波の後にやっと発見された記録だったのである
伝承は確かに相馬市の鹿島区の境の八沢浦の延長の柚木村に急ぎ坂とか念仏に関係する伝承が残っている、あそこに残ったのは八沢浦の奥ということで残った
そこまで津波が来ても大きな被害にはならなかった、津波は村を全滅させる
するとそこには伝承でも伝説すら残らない、海老千軒あったとするとあそこは弥生時代の遺構も発掘されたり最近古墳が二つも発見されたから古い場所だった
ただ鹿島区に何一つ津波の伝承は残されていない、原町区でも他でもそうである
これもなぜなのだろうと探求しても結局わからないのである
だからここに一応伝説で大津波が来たということはやはり大きな意味がある
相馬市磯部地区では約2000人の住民のうち、251人が大津波の犠牲になった。
市全体の死者・行方不明者458人の半数を超える。
その村は壊滅して今はソーラーパネルが敷き詰められてその面影を偲ぶものはなにもないそこに家があったということもわからなくなった、それは海老浜でも右田浜でも烏アでも萱浜でもどこでもそうである、家があった痕跡するなくなる
だから津波は本当に恐ろしいものであったのだ、それで津波で壊滅した村の伝説は残らないというのはそれをう伝える人も死んだからだとなる
ただ津波でも助かった人たちがその周辺で伝説を残したとなる
津浪から十年すぎて一昔になるとしてもまだまだこの辺ではその傷痕が消えない
それだけの大きな被害だった、ただ八沢浦とかは田が回復したとか復興はしている
でも犠牲者が余りに多すぎたことでその死者は還ってこないのだからそのことでまだまだ忘れるとはならない、家族を失った人たちはやはり忘れられないとなる
とにかく磯部村に残ったのは寄木神社だけであり海岸の磯部村は消滅したのである
ただ古磯部ともありもともとは海岸地帯の磯部村は後からできた
もともとは高台に住んでいたのだろう、なぜなら家が密集していたところは砂州だったからである、古い場所は高台にある、日本では平地は湿地帯になっているからである
それで古い神社はたいがい高台にある
八沢浦でも熊野神社がある所は海から近くても高台にありそこで津波が来て必死にその後ろの山の高台に逃げて助かった人がいた
かなり海に近いのに助かったのは前に丘があったからである、それで津波の勢いがそがれたのである
そして八沢浦は明治になって干拓された場所でありそれで平地にあった妙見の社は消失した、それは新しいものだったからである
神社とか寺は古いから高い所に作ったのである
烏崎の津神社ももともとあそこの平地にはなかった、別な所から移されたのである
そこも湿地帯だったからである、烏崎の方が最初の漁場でありその河口の方はあとから生活の場となり港ができたからである
烏崎で最も不思議だったのは高台にあった八幡神社が津波からぎりぎりで助かったということである、それはまさにぎりぎりの高さにあったことの不思議だった
それも古い神社はたいがい高い場所に作るから助かったのである
日本がにはこれだけ津波の被害かある国だった、でもこの辺では津波の伝承とか伝説がなかった、それで400年間忘れられていたのである
それで此の辺ては津波が来ないとして逃げずに死んだ人もいる
むしろ老人が頑固で逃げずに死んだ
これは何を語るのか?それは人間の時間の感覚が短いからである
いくら人生百年としても百年である、400年前となるともう誰も知らない伝える者すらいなくなっていたのである
それでも他では津波のことが語られている、相馬地域ではほとんど語られていなかったからなぜなのかとなる
寄木神社の由来
合祀稲荷神社 寄木神社
平氏没落後志摩国磯部に身を隠した落武者辰
之丞一行は間もなく陸奥国石巻に下り寺島氏
を称して世を忍ぶ辰之丞を船頭として漁師とな
つたが 海面を混濁する北上川の氾濫に度々漁撈
を妨げられ 遂に適地を求めて宇多郡大竹荘磯部
の里に移つたと伝えられる
辰之丞より六代程過ぎ寺島三郎通称与五作が或
日海に漁して一古木を得これを海中へ捨てたが三度
も網にかかったので砂浜に放置したところ 其夜海
浜一帯に怪光を輝かし与五作には夢に寄木大神の託
宣があつた
与五作はこの古木を箱に納め藁菰に被い祠に安置
して寄木大明神と崇め奉ったと伝えられ 時に
暦応二年(一三三九)秋七月であったという 次い
て与五作は神官となり市大夫と称して寄木大神
に奉仕し 黒木城主黒木正光が神田若干を寄せ
たと伝えられ また四代の神官寺島大之進の応永
二十二年(一四一五)三月には時の黒木城主が信託
によつて社殿を建て神田三反余歩を寄附したと
いう
永享の末頃寺島家は元の漁師に復し神官は絶
えたが後 佐藤好信が相馬氏に仕えて磯部城に拠
り祈願所として開山した海蔵寺が別当を勤めた
と伝えられる 天正十三年(一五八五)の建立を伝え
られた社殿は昭和九年(一九三四)旧正月十二日の類
火に焼失したが 畏くも御神体は災禍を免かれ
同年社殿が再建された
天永元年(一一一〇)上之台に祀られたと伝えられる
稲荷神祠は大永元年(一五二一)ここに合祀された
と伝えられ祭神宇賀御魂神と称し奉る
昭和六十年十月吉日」
海面を混濁する北上川の氾濫に度々漁撈
を妨げられ 遂に適地を求めて宇多郡大竹荘磯部
の里に移つたと伝えられる
これも災害があってこの地に移った、そしてまた津波の災害にあって磯部村は壊滅した
つまり日本がいかに自然災害が多い国でありそれが伝説にも物語にもなるのが当然である実際に津波にあって石巻からか故郷の丸森に移りそこで今度は水害にあった女性もいた
これはその逆の話しだったのである