資本主義の起源−日本人の勤勉さはなぜ
(草刈のように農業は勤勉さが要求される‐怠けることが悪になる)
田舎はいわば運命共同体
手入れが悪くて害虫を発生させた場合
当人だけではなく周りの田畑までまで影響が及ぶ
最善を尽くして被害が出たならばそれはたまたまその家が出ただけであって自分から出たかもしれないので地域全体でバックアップするし助け合う
ただ最善を尽くさずむしろ怠惰によって周りに被害をもたらしたものは許されない
この意見は面白い、どこに書かれたかわからなくなった
農業は毎日草刈が仕事である、草は刈っても刈っても生えて来る
怠けていると雑草が生えて来る、それで困るのは自分の畑を持っている人だけではない
隣でなまけて草を刈らないと困る、だから隣の人が怠けることが許されないのである
この辺では畑をやめてそこが荒地になると草が生え放題でありそれで困る
日本はヨ−ロッパとか違って乾燥していない、絶えず雑草が生えてくる
湿潤だから雑草が生えてくる、そういう風土である
農業は怠けられないのである、まず脱穀機ができたのは戦後まもなくであり精米するにも手間がかっていた、米を作ることは田植えからはじまり草取りがありまた手間がかかっていた、つまり米を作ることでも怠けられないのである
だからみんな勤勉でないと農業は成り立たない、それで一人でも怠けることは責められることになる
一方で狩猟とか牧畜は根本的に違ったものである、そこにあまり勤勉さを必要としていない、牧畜でも羊を放牧して自由にさせる、羊飼いは何かじっと見守っている
何か手を加えなくても羊は勝手に草を食べる、ただ草のある所に移動する時羊飼いは働くとなる、つまり移動することが働くことになる
それで馬を使用したりする、馬が不可欠になる
何か稲作とか畑で仕事するのとは農業は根本的に違っている、そこから形成される人間の感覚でも人間自体も違ったものとなる
狩猟とかなるとこれも何か勤勉に働くことではない、獲物を一発でとらえる
そこに必要なのはその獲物を捕らえる道具である
弓矢であり槍であり鉄砲とかでもある、そこで自ずと道具が発達したとなる
それが戦争の道具ともなった、何か稲作とかだとその道具が戦争になりにくい
そういう差が文化の差となり文明の差となった
それをなぜ知るべきかとなるとそもそも人間社会を導いたのは狩猟民族であり牧畜民族であり遊牧民だとなるからだ
ただエジプト文明は麦を栽培して農業文明だった、なぜならビールまで作っていたからである、ピラミッドを作ったのも農業の定着文明だからである
それはマヤやインカの文明にも通じている
とうもろこしを主食とすることは農業文明だったとなるからだ
なぜ日本人は一様に行動したり規律的になり村八分にしたりするのか?
それは稲作とか集団的に組織的一様化する労働からそうなった
そこで誰か一人が勝手な行動はできないし怠けることは許されないのである
それが草取りに現れていたのである
つまり一区画の田でも畑でも勝手にするわけにはいかない、それが草取りに現れていた
ここで詳しくは探求できないがこのことを思ったのはそもそも資本主義の精神というのがなになのかである
それう知るためにこうしたその基本となるものが資本主義の精神を形成した原動力は何かということである
それは勤勉な農業とも違う、何かそれは狩猟や牧畜、遊牧民から生まれた精神でないかと思った
ただその両方もある、何かを食料でも貯えるということは農業にあるからだ
資本主義にも資本を貯えるこということがあるからだ
ただ一発大きな獲物を捕らえるということは農業にはない、それで大航海とかを農民だったらしない、それはまるで違ったものだからである
航海はやはり海で魚をとっていた漁民から発展したのかとなる
どうしても船を操作することにたけねばならないからである
だから漁民が商人ともなる、遠くへ海をわたり品物を運ぶことになるからだ
つまり狩猟でも遊牧民でも移動することで共通している
農業文明は土地に定着して移動しないのである
つまり狩猟とか遊牧民だと狩猟は獲物を得るために弓矢とか道具が発達する
遊牧民は移動する、それで馬を使うようになる
どれだけ効果的に移動できるかが問題になる
それは何か資本主義に通じている、資本主義はグローバル化したがそれはその根底に移動するということがあった、移動して富を得ることがあったからだ
狩猟民でも獲物を求めて移動するからだ、
人間は人種より白人だとかアジア人だとかで区別するのではなくその生活形態で分けるべきである、アーリア人が残酷で世界を支配したというよりそもそも狩猟民であり遊牧民であるということが根底にありそうさせたとなる
ただ二つの生活形態で簡単に分けられないという面はある
なぜなら狩猟民とか遊牧民は大きな文明を作れなかった、大きな文明は四大文明でも農業文明であり定着文明だったからである
モンゴルとかは遊牧民の大帝国を一時作ったとしてもそれはただ拡散しただけであり何か文明を作ったとはならない、ローマは文明を作った、ローマ人は農民だったのである
質実な素朴な農民がローマを作ったのである
これも農業文明だったのである
ただ資本主義の謎はあらゆるものを資本とする、資本蓄積してそれで投資して富を増やしてゆく、物でも土地でも資源でも債権化して商品化して投資の対象にする
だから大航海時代に船の株主となりもし船が無事に荷物を積んで帰ってきたら株主は大きな利益を得た、しかし船が沈没したらゼロになったのである
そういう冒険的なギャンブル的なものがあるのが資本主義である
常に市場では株は上がり下がりしているからである、そこに必ずリスクがあるからだ
いづれにしろ何かコロナウィルスでこの移動が制限された
それはグローバル化が止められたとなる
グローバル化が限界にきてもうこれ以上拡散できない、縮小を余儀なくされたのである
それは自然環境にしてもグロ−バルの負荷が大きくなった
経済成長を追及してゆくと自然環境が破壊されて原発事故のように住めなくなるからだ
そのためにコロナウィルスが神がばらまいたのかとまでなる
資本主義が限界に来たという時、銀行がもう投資先がない、貸す会社もないということに現れている、銀行は金を貸して利子でもうける、でも何か設備投資して新しく商売する新しいものを作るということでも限界に来た
AIとかがもてはやされるのはそれは頭脳のことであり何か今までのものとは違っている
だから不思議なのはすでに2000年前に仏教であれキリスト教であれその後のイスラム教であれ宗教が興隆したのは何か文明がすでに発達した結果として内面化の精神文明が生まれたとなる第一僧侶とか牧師とかでも生産にたずさわらない、ただ瞑想しているということは生産に寄与しない人間だとなる
そんなことは日本だったら絶えず草取りしているのとはまるで違ったものだからである
瞑想して働かないということはその瞑想している人に食料を与える人がなければできないのである
いづれにしろ資本主義であれグロ−バル経済でありそれはコロナウィルスを契機として見直される、限りなく経済成長することは世界の自然環境を破壊することである
そもそもコロナウィルスはその土地の風土の自然環境を壊した結果としてそこからウィルスが生まれたということになるとまさに自然破壊がコロナウィルスでも産んだとなるからだ、自然からの警告だったともなるからだ
これから資本主義でももう投資先がない、それで銀行の役目もなくなる
そして宗教てあれ哲学であれ何か内面志向、物質ではない人間の精神を重視する文明に変わる、それはローマ帝国の後の中世時代とかにもなる、日本なら江戸時代の国風文化への回帰なのである、ただそれは同じものにならない、21世紀にふさわしい精神の内面化であり文化の創造となる
パソコンとかAIとかは何か物を作るというのではない、人間の脳とか心とか精神に働きかけるものをもっているからだ
通信というのもそうである、物の移動ではない、何か情報の移動であり物ではない
物の移動はもう限界にきていたのである
だからコロナウィルスで移動できなくなったことがそのことを象徴していた
移動から定着化とか縮小化とかステーホームとかは新しい生活様式だというときそうである、それは個々人が宗教のように内面化することにもなるからだ
コロナウィルスは三密を嫌う、集団的な行動を嫌うというのも不思議である
テレワークは何か個々人化するコミ二ケーションにもなる
なんらかコロナウィルスは世界を社会を変える作用したのも時代を変える作用をしたのもやはり人間社会は人間だけでは変えられないものがあり自然の作用で神が働きかけてそうなったきかと見たのである