桐の花、、白藤の花、菖蒲(俳句短歌と写真を抽象画に)
ここは田んぼだった
そこに桐の花が咲くが田んぼがないから活きていない
石すえて白藤垂れぬ暮るる庭
この道を通りて猫や藤垂れぬ
藤垂れて猫じっとしてここにいる
雨しとと塵もつかずに桐の花
長々と白藤垂れてこの家に大きなる石すえて暮れにき
我が庭の木の実啄むヒヨドリの今日も来たりてつつがなきかも
ひそけくも桐の花散るこの道を今日も行きつつ災いなかれ
桐の花散りて静けき裏の道今日も行くかなひそかなるべし
なかなかに電車来たらじ黒揚羽線路をよぎり舞いさリ消えぬ
梅雨のようになった、桐の花がいつも行く道に咲いている
桐の花は会津の花である、桐のタンスとか有名だからである
桐の花でも田んぼに写すと映える、ところがこの辺で田んぼが荒地になっているのがまだ多い、ある程度は回復しても放置されて草ぼうぼうになっている
そこに桐の花が咲いていても何か活きていないのである
桐の花と田んぼが一体のものとしてあった
つまり景観とかは暮らしの中で作られてきたのである
だから原発事故以後そういう暮らしが失われて景観も失われたのである
自然は原始のままならいいが人が住んだとき人の暮らしと一体となり景観も作られてきたのである
それがこの草ぼうぼうの中に一本立っている桐の花が活きていないことに現れていた
写真の白藤の家は石を飾っている家として有名である
あそこは土手の道でいつも通っている
あの石は大きいし見ごたえがある、そこに白藤は垂れて咲いている
その土手の道に藤の花がたれる、そしていつもそこに猫がいる
猫と藤は似合っている、
写真をとりそれを絵にする、また抽象画にする、パソコンのソフトを使いこなせばそれができる、ただソフトを使いこなすことが容易ではないのだ
ただパソコンは人間の能力を頭脳を補うものとしてある
だから今までの機械とは違っている
AIが第二の脳となっていることが違っている
翻訳でも本当に人間より優れていることに驚く
現代はコロナウィルスでテレワークになったように家で個々人で仕事する時代になる、教育でも学校だけで習うものではなくなる
その時才能がかえって伸ばせて天才が相当数生まれるようなるかもしれない
そもそも才能はその人の資質もあるが環境の方が大事だからである
いくら才能あってもその才能を伸ばす環境がないと埋もれるのである
これから個々人が才能を伸ばす活かす社会になるのかもしれない
在宅が主になるということは集団ではなく個々人となり個々人の才能を育てるということに変わるのかもしれない
まず学校のような一様化した集団教育では才能は開発されないのである
自分は学校を卒業してから才能を開発してきた
それで何か絵の才能が全くなくても写真をとり抽象画にしたり加工して絵にしている
そのことが自分でも不思議なのである
だから人間の才能はこうして機械によっても開発されるものだと思った
ヒヨドリが毎日木の実を食べにくる、何であんな小さな実を食べて生きられるのか不思議である、飛ぶことには相当エネルギーが必要に思えるからだ
何か他にも食べているのか?
鳥は虫を食べている、虫はタンパク質があるからエネルギーになる
でも八つ手の木の実は小さいしそれがエネルギーとなるとは思えないのである
ともかく今は下の庭の見える部屋にいる
だから庭を見るからそこに自然があると安らぐとなる
自分の家は広いから知的作業をするには最適な環境である
大学生の時から書斎が自分にはあった、そういうふうに自分は恵まれていたのである
まず在宅で仕事するとなると広い家が必要である、そこで子供とか妻とかいれば仕事に集中できないからだ、それで問題が起きている
となると在宅のテレワークとなると大きな家が必要になる
ただ通勤とか車とかはあまり必要なくなる
その分大きな余裕がある家が必要になる、ただそうなると家は高いから問題である
何か邪魔されないように仕事をノートパソコンもって公園で仕事していたというがそれでは仕事に集中できないから問題である
そういうふうにコロナウィルス以後の仕事は変わりそれに備えることが必要になる
それは必ずしも悪いことばかりではないと思った
新しい時代の働き方でありまた学び方にもなるからだ