2020年05月12日

コロナウィルスがグロ−バル社会をを変える (人間には境界が必要でありそれぞれの風土に適応して生きるのが自然)

                                                        
コロナウィルスがグロ−バル社会をを変える

(人間には境界が必要でありそれぞれの風土に適応して生きるのが自然)


韓国と台湾を見ていると、共産党の一党独裁下で中国の習近平体制が進めた極めて統制色の強い対策がすべてではないと勇気づけられる。双方に共通の成功要因は、個人情報をビッグデータとしてスマートフォンを使って上手に収集したうえで、国民一人ひとりに迅速に必要な情報を提供してきた点だろう。


これは何を意味するのか?

やはり人間はガバナンスとか一体感とか統制するにはそれなりの規模でないとできない
韓国は大陸とつながっていても小国でありガバナンスしやすい、それでITの活用もうまくいった                                      

そして北朝鮮と国境が閉鎖されて出入りできない

このことがかえってコロナウィルスにはいい面として作用したのも皮肉である
もし北朝鮮と強固な国境がなかったら中国から大量の人間でも物資でも流入したからである、そして半島だから海にも囲まれているので外部から入りにくい
それはニカラグアという小国でも似たような地理だったのである
細長い半島であり回りは海に囲まれているし国境を閉鎖すれば入れない
それでいち早く国境を閉鎖しておさえた、それは韓国よりもっと小国であったからだ
国とも言えないような小国だったのである
台湾とかニュージランドでも感染拡大を阻止できたのは地理的条件であり小国だったからである、また海に囲まれていたということである
日本もまた海に囲まれていて地理的条件はにていても実際は大国である
だからガバナンスがうまくいくとはならない、でもなんらかコロナウィルスに強い条件が備わっていた、地理的条件も良かったともなる

そもそもアメリカとかヨ−ロッパでも大陸と陸続きであり国境があってもないと同じである、EUは国境がない、人でも物でも自由に出入りする
中国も巨大すぎて統制ができない、何かコロナウィルスを抑えたと言うが別な地域でまた感染者が増えるのは国が大きすぎて統制ができないからだ
今回のコロナウィルスでわかったことは人間には国には国境が必要だ
境界が必要だという時、市町村合併でさえそうだった、南相馬市では小高、原町、鹿島と合併したがそれが原発事故の補償金の分配などでもめた、利害の対立が生れて一体感がなくなった、つまりこんな狭い範囲でももともと境界がありその境界内で自治体があった、それが全国的に合併が実行されたときうまく自治体として機能しない面があった
きめこまかい行政もできなくなった、つまりガバナンスがうまく機能しない面が生れた
こんな狭い範囲でもそうならこれがグロ−バル化したときもうそこにはガバナンスも何もないのである
ただ貨幣が支配する非人間的な世界である、それで金融資本家が世界を支配するとか多国籍企業が世界を支配するとかなったのはそのためなのである、極端な格差社会になったのもそのためである
世界の富が極一部のものに集中したのである

そもそもなぜ万里の長城ができたのか? 

そんなもの途方もない無駄にも思える、でも人間には国境が必要だということを歴史的に示していたのである
国境は人間に不可欠なものとして生まれた、時代がそうさせたとかそんなも何の役にたったのかとか今なら見る、でも必要だったから生まれたのである
それでアメリカとメキシコでもアメリカが移民が入らないように壁を作る
それは万里の長城の再現なのである
また江戸時代に関所が多かったのも必要から生まれた
関所があればそこを閉鎖すれば他国のものが入ることはできない
ウィルスの伝染もそこで抑えることができる

だから今コロナウィルスで関所が必要なったことは歴史の繰り返しだとなる
交通が途絶えてしまったからである
何か20世紀までに人間は国境なき世界を目指してきた
それがグロ−バル経済でありそれで世界が歪んだものにかえってなった
それを是正するためにコロナウィルスが生まれたのかとまでなる
国と国の交流というときそれぞれの風土や文化があり制限なく交わることは天の理とか地の理に反している
なぜならウィルスとは風土病でありその風土に生まれたもの、地理が限定されて他に広がらないものだったが世界と交流すると広まったからだ
コレラでもインドの一部の風土病だったのが世界と交流があり日本でも長崎とかの港から広まったのである                  

人間には本当は境界が必要なのである
境界とか国境とかは不便なもので取り払うべきだ、人間は自由に世界と交流すべきだというのがグロ−バル社会である、そこに落とし穴があった
第一人間の文化が育まれるのは実際は狭い地域である、日本は日本という島国でありそこで歴史と文化を作って来た、だから食生活から海産物主体とかなるのは当然だったのである、羊とか牛はいないし食べてもいないのである
また遊牧民の牧畜とか家畜を使わなかったからそこに根本的に違った文化が形成されたのである
奴隷とか宦官とか生れたのは牧畜とか家畜文化があり生まれた、人間が家畜のように見るからである,カースト制などでもそうである、そこには家畜文化があり動物をカースト制に入れる、つまり人間を家畜のように見ることがあるからだ

そのことはどれだけ深く動物と人間が交流している、動物と一体化した文化だったということである、それは宗教にも現れている
魚を殺して食べても何か罪の意識が生れない、でも動物を殺すことは罪の意識を感じるからだ
日本がでも狩猟時代があった、縄文時代はそうだった、でも後は動物をあまり殺していないのである、米が中心になり野菜と魚中心の食生活になったからだ
それで腸が長くなった、肉食中心の欧米人などは肉を消化する酵素がでるが日本人は出ない、すると体質的に肉食は本当は合わないとなる、それは風土によって体まで作られていたからである、今回のコロナウィルスの不思議は欧米人がなぜあんなに感染者が一挙に増えて死者が増えたのか、それが良くわからないのである

また日本人がこんなに死者でも少ないのはなぜなのか?

それが疑問なのである、ロシアでも増大している、大陸とかは広いから増大しやすい、感染をとめられないという地理的条件があることは確かである
つまり何でも地理が関係している、地理を知らないと人間のことも世界のことはわからないのである

自立を目指すということは境界線を閉ざすとういことではなく、それをうまく管理することである、各地域社会は各地域内の生命の営みの調和と一貫性を損なうことなく互いの境界線を介して交換活動を行う能力をもたなねばならない

健全な生活と地域社会と人間の幸福には「場所」と境界線が不可欠だという認識だ
そしてその認識が今度は多様性を賞賛し、人間と地球の利益のための国際協力を支持すると同時に、地方の独立性を守ろうとする新しい「建設的ローカリズム」を生み出している
(  ポスト大企業の世界ー貨幣中心の市場経済から人間中心の社会へーデビット・コーテン)

この本には全面的に共感する

つまりグロ−バル経済の矛盾は全世界的に心あるものが感じていたことである
何かおかしい、こんな世界でいいのかと感じていた、でも貨幣が世界を席巻して支配して多国籍企業が世界を支配する、それがグロ−バリズムである
その矛盾が頂点に達していた、そこにコロナウィルスが起きたのである
ということはコロナウィルスが世界を変えるともなる
なぜならコロナウィルスの前と後で世界が変わるとしているからだ
それは悪いことばかりではない、全体的にグロ−バル化した世界から新たな地域に根ざした人間中心の社会をとりもどすことである
文化とはcutivateでありその土地土地に根差してcultureを作ることである
だからワインにしても土地土地によって味が違うし米でも酒でもそうである
グロ−バル化でもみんな同じ味になったら文化はないのである
コカ・コーラとかが世界に普及したりマグドナルドとか食生活を一様化することは文化ではないのである

コロナウィルスは世界を変える、だから不思議になる、世界を変えるというときとても人間の力だけでは変えられない、原発事故でも津波で崩壊して原子力村の悪を暴いた
コロナウィルスも自然の作用であり世界を変えるというこで人間社会は人間だけでは変えられない、それで中国では易姓革命の思想が生まれたのである
posted by 天華 at 09:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。
この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/187481455
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。
※言及リンクのないトラックバックは受信されません。

この記事へのトラックバック