2020年05月03日

福島県浜通りの津神社はツノガノアラシトの跡 (蝦夷は出雲族であり伽耶(かや)と連合した)


福島県浜通りの津神社はツノガノアラシトの跡

(蝦夷は出雲族であり伽耶(かや)と連合した)

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原町区雫(しどけ)の津神社


「出雲の国譲り」のあと、畿内から遠い九州あるいは東北方面に逃れた。
東北に安住した者は蝦夷(えみし)と呼ばれ、九州に安住した人は隼人(はやと)と呼ばれるようになった。
だから東北に暮らす我々は、蝦夷の末裔ということになる。

大国主命に従っていた国つ神たち、つまり日本の先住民はの首領たちは、出雲を追われてどこに行ったのか?
長野の諏訪神社の御神体は蛇=竜だ。
諏訪大社に祀られている建御名方神(たけみなかたのかみ)は大国主の子で、国譲りを迫る天照の使者建御雷(たけみかずち)と力競べをして敗れ諏訪へ逃げた。 のちに様々な祟りをなしたので、朝廷は大和に三輪神社{大神神社)を建立する。


坂上田村麻呂が東夷征伐の勅命をうけて進軍してきた際、苕野神社にて戦勝を祈願し、無事近隣の山を支配下に置く賊徒を平定した後に、神恩への報賽として神殿を建てたという
苕野神社は往古は請戸地区の沖にあった「苕野小島」という島に鎮座していた。その後、波浪などで島が崩壊したため、現在の鎮座地に遷座したという。また、2011年3月11日発生した東北地方太平洋沖地震により、浪江町の沿岸部は津波の被害を受けた。海のそばに鎮座する苕野神社も社殿がすべて流出、前宮司の家族も犠牲となった

末続駅の末続も渡来人の跡か? (地名に残した渡来人の跡ーツノガノアラシトの跡)

これを前に考察した、それで図に書き加えた、これだけ一連ものとしてつながりがあったことは明確である
草野神社もそうである、鹿島区の大内村の薬師堂は元は坂上田村麻呂由来である
諏訪神社系統ももともと出雲であり蝦夷というとき出雲でありそれが建御雷(たけみかづち)の戦いで神ゆずりしたとされる
鹿島神社はそこに由来している
そして鹿島区の海老はエヒであり蝦夷のことである、その蝦夷と戦ったのが物部であり
御刀神社があそこに祀られたのはそのためである、なぜなら海老村をにらむ地点にあったからである、第一刀神社とは刀をそこに突き刺したことに由来しているから刀で征服したということである

それで問題は原町の萱浜である、もともとカイハマといっていた
そのカイとは北海道の名の起こりが北海(ほっかい)であるがアイヌはカイと呼ばれていたのである、また甲斐はアイヌに由来するのか?
なぜかここのカイが武田信玄と関係づけられているのもなぜだろうとなる
そのカイがカヤとなったのはなぜなのか?
そこで真野の草原(かやはら)のことで探求し続けたのが自分だった

ここで気になったのが浪江の苕野神社(くさの)神社がもともとは草の小島という場所にありそれがは波浪で流されたという時、それは津波のことなのか?
そして今回も請戸の宮司が津波に流されて死んだのである
鹿島の烏崎の津神社も津波で流された、あれはもともと高い場所にあった
それが低い場所に移された
また原町の雫〈しどけ)の津神社も高い奥まった所にあった、あんなに高い所にあるのも不思議である
そして相馬市の松川浦の津神社(つのみつ)は辛うじて津波から逃れた
そこに逃げれば津波から助かるという伝承があったという
でもすれすれだったのである
もともと神社は低い場所にない、なぜなら日本の低い場所は湿地帯だったからである
今回も海岸地帯は湿地帯となった、田んぼが湿地帯になったのである

ともかく図にしたこの浜通り一体はツノガノアラシトの進出した跡である
砂鉄を求めて進出した跡である、それが地名化したというとき先住民の蝦夷が住んでいたとしてもそれが大和朝廷の全国征服で歴史から消された、でも神社とか地名は残っていたでもその由来がわからなくなった、伽耶国のツノガノアラシトが関係していたとしても
伽耶自体が歴史で不明となったからである
ただ伽耶は日本と密接な関係にあった、天皇が伽耶国に由来しているいう時もそうである
そしてもう一つ朝鮮半島の突端の伽耶国が照葉樹林帯の中に入っていたのである
つまりこの照葉樹林帯は温暖な風土から生まれた地帯として文化があった
朝鮮半島は大陸であり寒い系統にあるがその突端の伽耶国は比較的温暖だから照葉樹林帯の中に辛うじて入っていた
常盤(ときわ)とか常葉(とこは)というとき常に緑をたたえた常緑の森なのである

初発神社の境内は、スダシイが主となる自然林です。スダシイは暖かい地方に生えるブナ科の植物で、この場所はスダシイの北限の地として知られています。
多珂神社の隣にある神社である、それと並んで綿津見神社がある
これは安曇族などの神であり海洋民の神である、ここも照葉樹林帯文化に属する人たちがここに移住してきてその人たちの神を祭ったのである   



posted by 老鶯 at 16:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)
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