新地の海の公園から山元町まで自転車で行く
(桜咲く六号線を行く)
八幡神社の池の錦鯉
新地の新しい公園
山元町へ入る-ここにまだ津波の被害があった小学校が残ってる
山元町(6号線)
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春の雷仕事張り切る大工かな
(八幡神社)
錦鯉異なる色や花盛り
朝日さし桜を写して錦鯉
農家あれ桜菜の花紫木蓮
遠くへと海の展けて朝雲雀
六号線桜咲きつづき山元町
新地町装い新た公園に朝鳴く雲雀海にひびきぬ
太白山海より望み目印や春の日遠く見えにけるかな
山元町六号線をすすみきて夕暮れあわれ桜の色濃し
山元町夕べ桜の咲きにつつ海を望みて金華山見ゆ
津浪で海の村は消失した、その後に広々とした海の公園が生まれた
松が植えられていた、あそこには風力発電の風車がなく広々としていた
だから前より気持ちいい場所になった
蔵王から太白山が見え牡鹿半島と金華山が見える
ここではまだ大きくは見えないが山元町から大きく迫って見えた
新地町は津波の前より駅で都会並みの駅であり良くなった
津浪は悲惨だったけど復興したと感じる
あの新しい公園は広々として見晴らしが良く気持ちいい場所になったからだ
仙台市や名取市の沖合いからも太白山を確認することができ、江戸時代には千石船がこの山を航海における目印の一つとして見ていたと伝わる。また、閖上周辺の漁業では太白山を基準の一つとして漁場の確認を行っていたという
新地から山元町に入ると蔵王と太白山が見える、この景観が電車からだと見えない
だから電車では百回以上行き来してもその景色がわからなかったのである
だからつくづく電車でも旅したことにならないのである
その地勢とか地理でもわからなかったのである
近くですらわからなかった、交通の便が良くなりすぎて近くがかえってわからなくなっていたのである
太白山は300メートルくらいでも海から見えるから目印になった
ここから見ても平坦な地にぼつんと小高い山となって三角形で見えたのである
だから海からも見える山だったのである
地理からみれば南相馬市とか相馬市とか新地から山元町から亘理町から仙台から石巻と海岸沿いは一体感を感じる、津波の被害にあった所が一体として感じる
でも阿武隈山脈(高原)にさえぎられるから福島県の福島市とか中通りは一体化を感じないのである
なぜ伊達政宗がヨ−ロッパまで太平洋を渡り船で使節を送り出したのか?
そんな発想自体東北から生まれたのが不思議である
ただ地理から見ると宮城県は海と密接に結びついて港があるから入江もあるから海に展ける地の利があった、だからこそそれだけの発想が生まれた
正宗雄想
春望千里
太平洋哉
欧州渡船
こういう展望がひらける、新地から山元町は伊達藩の領域であったといとき、やはり金華山とか牡鹿半島が近づいて大きく見えるのである
蔵王を大きく見えるから山形県ともそこで一体化するということがある
とにかくこうして地理を知るには電車でも車でもわからない、そこが現代の盲点なのである、自転車で徐々に山が迫り大きく見えたり海が陸地から展望する
地理を知るには車でもわからない、早すぎることもある
徐々に見える時、心にまさに迫って印象深くなる、記憶されるのである
ただヤマハのYPJ-XCは何度も言うけど走り安いから行けるのである
体力なくても行ける、ただ疲れるようになり腰が痛くなる、だから遠くまで行くとなると限界になったのである
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