2008年09月02日

平和なる時はありにし(認知症により破壊された家族−詩)


平和なる時はありにし(認知症により破壊された家族−詩)


平和なる時はありにし
その女は賢くありぬ
その女は優しくありぬ
その女思慮深くありぬ
その女はみなに慕われありぬ
平和なる時はありにし
一転して平和は乱れぬ
脳は壊れ狂気の席巻せり
家族は破壊され元にもどらず
その女の賢さはすべて崩れぬ
ただ異常なる狂乱の女と化せり
何故か知らず未だに知りえず
平和なる時はありにし
家族は和やかに睦みあいぬ
我はその中にありて育まれぬ
普通の家族にはあらじも
それなりに平和はありにし
常なる平和はこの世にあらじ
世は乱れ戦争の犠牲となりしもの
その時狂乱は世を席巻す
あまたの生贄をサタンは飲み込む
何故の犠牲か未だ知り得じ
平和なる時はありにし
その女は賢く家の要なり
欠点はあれども賢さのあり
しかし脳は破壊され狂乱の女と化せり
知能は童と化して感情は肥大化して
嵐のように自ら翻弄されるのみ
回りも狂乱に巻き込まれ平和はなし
ただ人に嫌悪され愚弄され排斥されぬ
あたかも神に呪われしもののごときなり
今に知る平和なるときの尊きを
ああ その日は帰らずただ回想するのみ
賢さの平和のいかに尊きや今にして知る
平和は常にあらざり、平和は神の恵みなり
賢く治められしは常にあらじ
世は乱れ平和なる時は永続するにあらじ
賢く平和なるときのいかに尊きかをしる

 
認知症の家族をかかえて翻弄されてきた。なぜこんなことになったのか、なぜこんな病気があるのか、認知症とは何なのだというときただ今も不可解な謎である。でもふりかえって平和なときの家族、賢い時の家族の姿を思い浮かべて、賢いと言っても欠点はあったし特別な女性ではない、そういう普通の家族関係が全く破壊されてしまった。そもそも記憶障害が極端であり銀行のことがわからない、金がおろせないなどその症状が極端だった。その衝撃は本人にも回りの人もそうである。そんなことがありうるのかと衝撃を書いてきた。賢さと言ってもそれは普通にあることができなくなった。賢いというと特別な賢さではない、極あたりまえの普通の人間でありえないという驚愕だったのだ。でも今になるとその極あたりまえの賢さが平和なことだったとつくづく思うようになった。複雑な家庭の事情にあったがそれなりの賢さで平和は維持されていたのだ。それが崩壊したのはやはり認知症という極端な脳の異変、破壊のためだった。だからその当たり前のことが今や何か貴重な尊い時間だったと思うようになった。平和というのは常にあるものではないと思った。戦争も狂乱でありそれに巻き込まれ死んだ人は無数にありそれもそんなに時間はたっていないのである。その時平和は全くなかったのだ。狂乱に巻き込まれて死んでいった。その人たちは戦争の中でどれほど平和を願い平和に生きられたらなと思ったに違いない、戦争がなくても必ずしも平和があるとは限らない、病気になればやはり平和はない、安らぎはない、一つの戦争状態になってしまう、自分が病気になっても家族が病気になっても家族が戦争状態になる。ともかく賢さがあり平和があった日を回想しているのも不思議である。平和は当たり前のように今あるが平和も常にあるものではない、社会的にも混乱があり狂乱がありそれに巻き込まれ犠牲になることは今までにも歴史上でもいくらでもあったのである。戦後五十年の平和は貴重な時間だった。その平和がこれからもつづくとは限らない、それが人生だった。戦争がなくても人生に平和が維持されることはないのだ。どこかで平和が破綻してしまうことがある。それを自ら体験したのが認知症の恐怖であった。
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。
この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/18735742
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。
※言及リンクのないトラックバックは受信されません。

この記事へのトラックバック