2020年01月31日

人間の記憶のメカニズム (記録と記憶の相違-記憶するには全体と過程が大事)


人間の記憶のメカニズム

(記録と記憶の相違-記憶するには全体と過程が大事)

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この世の中に膨大な記録がある、人間は文字でも絵でもなんでも今なら写真でも動画でも記録はできる、私自身書いたものが膨大である
その自分が書いたものすら忘れていてもう一度読み返してこんなこと書いていたのと感心したりするのも変なのである
それだけ人間は忘れやすいのである

でも不思議なのは人間が記録することと記憶することは違う
例えば記録媒体によっても違ってくる、本であれ新聞であれテレビであれインタ−ネットであれ写真であれ動画であれ様々な情報にあふれているのが現代である

でも何かこの情報媒体が違っても記憶することが違ってくる
新聞を広げる、いろいろなことが書いてある
その中で興味あるものを読む、するとその興味あるものは記憶に定着する
でもまずそれは一つだけなら記憶しやすい
いろいろ記事があってもはそれも忘れる
ただその人なりに興味あるものは記憶される
でも私はその興味をもったものを記録しないとまた忘れる
それでスキャナーでパソコンに記録する
するとまた読み返すことができる

その新聞の記事を記憶したのはまず新聞を手にとる、紙面を全部見る、そしてその一記事に注目する、そしてその新聞を見た場所がありまた新聞を置いた場所がある
そういうものも記憶として残っている
それはモノだからそうなっている、モノとして新聞がありそのモノを扱うことで記憶しているのだ

でも電子掲示板だとインタ−ネットは電子文字になるからモノとして扱えない
それで膨大に記録はいくらでもできるのだが記憶しにくいということがある
何かモノを扱うのと違うからただ文字が流れて消えてゆくという感じになる
それでいつも興味ある記事でもどこに記録したのか場所を忘れる
電子空間でパソコンで記録していてもわからなくなるのである

例えば記憶とは一つの古い碑が道の辺にあるとするとするとその辺りの空間も意識して一つの碑に注目して記憶に残っているのだ
ただ一つの石碑を見ているだけではないのである
だから博物館に陳列したものは記憶に残りにくいのである
つまり場とともにモノがありモノの記憶が残る
それがただの記録と記憶の相違である
記憶するということは全体をきりとった一部は記憶に残らないのである
それで写真でも全体の一部をきりとったものだからそこから全体を見ることはできない
動画でも同じである、その場所の全体はわからないのである
そこに錯覚が生まれて何でも誤解が生まれるのである

本当に旅して不思議なのは地理を知るには一部分を知ることではない、全体の中に一部分がある、でも記憶媒体になると何でもそれは全体の一部を切り取ったものなのである
世界とは全体のことであり部分のことではない、全体があって部分がある
でも人間はメデア(媒体)がいろいろあるとしても新聞でもテレビでも何でも部分を見ているのである
でも実際のその地に立てば全体から部分を見るのである

今会津について短歌を30くらい作った、それは私は会津の全体を自転車で旅したからである、三回くらい自転車で旅した、それが今になって記憶としてよみがえる
記憶するという時車とかなるとまた記憶に残りにくい、電車でも記憶に残りにくい面がある、やはり徒歩だと一番人間は記憶していることは確かである
その土地を記憶するには歩くとその土地と一体化するからである
また何度も行けば記憶に定着しやすい、だから人間がアイディンティティ化できるのは狭い土地であり広くなるとしにくくなる
何度も見れば何度も出も行けば自ずと記憶に定着するようになる

記憶という時、その部分にあったとかその部分だけが記憶とはならない
ある場所にいたというときそこまで行った過程からその場所を記憶する
あそこまで坂を上り苦労してあの場所についたなということを記憶する
記憶はそうした全体の過程とからも意識されるのである
その全体から部分を意識するとか記憶するというのが人間の特徴である
だからいくら写真でも動画を見ても人間の記憶の仕方は違ってくる

数学でも問題を解くとき解答を出す過程が大事である、その解き方も一つではない
正解にいたる過程はいくつもある、その過程を通じて人間は記憶する
どういう手順を踏むかというのが大事になる
そういう作業を通じて記憶されるのである

例えば芭蕉の平泉で作った俳句の「五月雨の降りのこしてや光堂」というとき
それ5ははるばる奥の細道を歩いてきてその句が生まれた
それと同じように記憶もそうした過程の中で記憶されているのである
だから記憶とは全体の中から過程から記憶される
文章でも文脈がありその全体を知らないと部分だけでは定着しない、記憶されないともなる

とにかく記録と記憶は違っている、人間は最後は記憶に生きる
自分なら旅したからその記憶をよみがえらせて詩とか短歌と俳句を作っているのである
でもそれは常に全体から旅した過程があって記憶しているのである
鉄道でも車でもなかなかそうして全体の過程から見れない、それで記憶に定着しにくい
それで現代の経験は何かかえって便利になりすぎて浅薄な経験しかしてしいないのであるそれは後年に老人になってかなりの損失である
なぜなら最後は人間は記憶に生きるようになるからである
すると記憶に残らないとしたら何にもならなかったとなる
現実に団体旅行した人がどこに行ったかも記憶していなかったのである
こうなればその人は旅したということにもならなかったからである




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