2020年01月20日

場が人間のアイディンティティの基礎 (調和の庭(詩)−田舎と家と土地)



場が人間のアイディンティティの基礎

(調和の庭(詩)−田舎と家と土地)

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この四つが場所がいい、最近磯部に絆という喫茶店ができたが場所が良くない
海も見えない、庭から道路が見えるだけだとなるからだ
パン屋は海が見える、でもそこは休む家がない、パンだけ売っているだけである
場所として海が見える所が良かったと思う

鹿狼山の下の花木山ガーデンからの見晴しは最高である
あそこにも喫茶店のような休む場所があるがかなり狭い、でも場所としてはいい
ただ私はこれらの喫茶店とか行ったのは二回ほどしかないのである


日本の庭はやはり一つの文化である、家庭というとき家と庭だからである
ただなぜ人間は調和しないのか?
自然は荘厳な調和の世界であり宇宙である
人間社会は別に戦争がなくても絶えず争っている
他人に対してなにやかにやでもめているし衝突している
つまり人間社会には本当の平和は永遠にないのである

田舎でも別に人間が調和しているわけではない
ただ田舎の相違は何度も言うが「場所の現象学」で深く場が考察されたようにその土地と深いアイディンティティをもっているからだとなる
ふるさとというとき故郷でもありこの故は祖父から親から子へと継がれるものがあったからだともなる、里は場なのである

それは農業社会だからそうなっていた、それで農家では三代つづいてはじめて仲間と認定されて部落に受け入れられたというのもそうである
それは土地と深く結びついているからそうなったのである
場という時、私が言う観念的なものとは違う、具体的に生産の場をもたなければ生きていけないからである、農家と土地はそうして一体化しているからだ
土地は血肉ともなっているからだ

やはり何代もつづく家はそこに何か表現できないが重みを増してくる
それは蔵がある農家とかがそうである
都会だといくら豪邸に住んでいてもそうした重みが備わらない
それは土地と一体化した場をもたないからである
田舎の家は農家だと大地に深く根付いた木のように見えるからである

現代人の生が何か希薄化する、浅薄になる、重みがないのは場を失ったためである
日本の神社が社でも深く場とかかわり生まれた、神社と小社でも場と切り離されずあったからである、その地域地域の場と深く関係しているからである
それは外国でも神殿が建つ所はその場と関係していた
不思議なのはイスラム教でも偶像崇拝を拒否してもメッカという場が信仰の場となっている、方角と場に祈っているともなるのだ
つまたそれだけ人間は場から離れてありえない存在なのである
その場とのアイディンティティを失ったとき生の意味ももていなのである

だから何でも経済的に金で今は考える、そんな田舎に住んで金にならない生活できないとなるだけである、では都会で大金持ちになってそれで生の意味が価値が意味がアイディンティティが作れるのか?
普通は今ならそんなことは考えない、でも最近い若者でも田舎に移住する人が増えてきた空家がありそこに住めば広い庭があり場を確保できるからだ
そこで生活するとなると贅沢はできないかもしれないが場をもつことができる

ただ正直田舎の問題はかえってそうして場をもたない、家をもたない、ある程度の資産がないと暮らしにくい、市営住宅に住んでいるような人は何か場をもたないということで余計にみすぼらしく見えてしまうのである
そして田舎だとその土地の有力者は住みやすいのである
何か狭い世界で序列ができて威張ることができるからである
でもそうでないと田舎はそういう序列が見えやすいから住みにくいとなるのである

だから相馬市の煉瓦の喫茶店のことを入ってそれも城下町で場を得て調和したと見た
特に広い庭があったから余計にそれを感じたのである
喫茶店でもレストランでも何か場所がいいと価値がある
海の見える喫茶店とか山陰の隠れ家のような喫茶店とか丘の喫茶店とかである
津波の後に海老村には山陰の隠れ家のような喫茶店が農家の納屋を改造して作られた
磯部の柏崎の丘には薔薇を咲かせた西洋風の喫茶店がある
その場所で価値がまずある、家でもその場所の価値がある
景色のいい所にある家は価値がある、だから都会だとそういういい景色の場所がないから豪邸でも価値あるものと見ないのである

人間は意外と常に場の影響を受けているのだ、それを感じたのは家の中でもそうなのである、二階と下では何か住んだ感覚が違うのである
二階だと空が広く見えているし冬だと廊下に日がさしてひなたぼこして本読んだりしている、すると何かイメージが湧いて詩でも創作する、アイデアが生まれるのである

それは一つの家でも場所が変わると気持ちが変わる

だから何か書き物したり創作したりする人は家が大事になる、家は画家ならアトリエだからである、そこが創作の場所になるからである
そして不思議なのはそこにただ座る、胡坐をくみ座るのとソファーにもたれるという姿勢で脳の働きが違ってくる、これも不思議だと思った
姿勢を変えただけでも脳の働きが変わるのである、だからソファーでも背を伸ばせるソファーが椅子がいいとなる
そこでくつろぐといいアイデア生まれるとなるからだ
その点自分の家は恵まれているとなる、ただ一人で広いから困っているのである

老後を考える時意外とこうして場が大事になる、なかなかもう旅もできない、じっとしていることが多くなるからだ、すると家が広くて余裕があり思索する空間があることが大事になる、だから老後は家が根城となり大事なのである
そこで書き物などもするし仕事の場ともなるからである
だから景色がいい場所にある家だと最高だとなる
ただ私の家は街中にあるから景色がいいとはならない、でも田舎だから回りに高いビルなどないからいいのである

相馬市がいいのは平屋が多い、高いビルがない、ただ田町通りは広く新しくしたから何か違和感が生まれた、公共の建築物のように入母屋式のようにすれば昔の感覚が生まれたかもしれない、ただこれは両論がある
とにかく価値はいろいろある、一つの価値だけてはない、価値を生むものはいろいろある場所も立地も大きな価値なのである、これが価値の基本にある
それが人間の基本的アイディンティティとなるからである 



調和の庭

一つの庭に
石と石は
調和してある
石と石は対等である
石はそこに
一つの調和の世界を作る
それぞれの場を得て
石はそこに落ち着く
場に根ざして石はある
そこに高ぶるものなく
低きものもなく
石は調和して
一つの世界を形成する
大きな石も小さい石も
高い石も一つになる
人に例えれば
兄弟の石があり
親子の石がある
夫婦の石とみるごとくに
祖父の石のごとくに・・・        






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