2019年12月30日

万葉集にみる国意識 (場所とのアイディンティティが人間の存在意義を作る)


万葉集にみる国意識

(場所とのアイディンティティが人間の存在意義を作る)

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会津嶺の歌」『万葉集』巻十四、3426番、東歌に会津の歌が収められています。

「会津嶺の 国をさ遠み 逢わなはば 偲びにせもと 紐結ばさね」


この歌が何か国を象徴している、会津嶺という山があり「紐結ばさね」と妻との強い絆を歌う、それは妻だけではない家族でもはあり人との絆でありつながりを歌っている
ただ国となるとそれなり大きいのである
第一会津となると面積では福島県の半分にもなるから広い
ところが故郷ととなると古里であり里は極めて小さな地域なのである
だから国と故郷はまた違ったものにもなる
古里意識と国意識は違う、だから会津となるとどうしてそれだけの広い国意識をもったのかともなる、どのくらいが国の範囲かわからない
それより国意識は外部との関係で持つことが多い、あなたはどこから来ましたとなるとき・・・の国ですとなるからだ
日本でも日本国内では国意識をもてない、外国に出ると国意識をもつ
日本という国を意識するのは外国に出たとき最も意識するからである
故郷は別に対外的には関係ない、何か家族くらいの狭い範囲なのである

忘れがたき故郷 如何にいます父母恙なしや友がき

これは父母であり故郷の人との絆を歌っている、これと国意識は違っている
国となると会津のように広いのであり家族とかでもない広い共同意識である
それは地形とか地勢とか風土とともに作られたアイディンティティである
だから会津にはそうした風土と歴史があり国意識が作られた
それで明治維新で薩摩長州が攻めてきて踏みにじられたとき特別の憤慨があった
そこに生きてきた人たちのアイディンティティが踏みにじられたということがあったためである、それはベトナム戦争の時もあった
なぜ強大なアメリカに抵抗できたのか?それは根底にこうしたその国に生きる根強い国意識があって抵抗できたとなる
ある土地を知ることはその国の全体を知ることであり一部分を知ることではない
料理でもそれは一部分である、全体は風土であり歴史でありそこから醸し出されるものである、会津にはそういうものを感じやすいのである
福島県では他に感じにくいのである

ただ国と言ってもそれが日本となるとその国意識は違ってくる、国家となるとそれは風土があっても広すぎるから国意識から離れる
最初の大和国家でもそれは奈良中心の狭い範囲なのである
大和とは一地域名だったからである

やまとはくにの まほろば たたなづく 青がき 山ごもれる 大和しうるはし

この歌は奈良盆地のことであり広いにしてやはり日本全土にすれば一地域なのである
多多国意識は山と関係して日本では生まれている、これだけ山が多ければそうなる
外国でぱ国意識は父なる川のラインとか長大な川がありそれがアイディンティティ化して国意識になっているのだ
だからここが日本人にとっては理解するのがむずかしいのである
いかに川に対する思いが深いかわからないのである
ケルンの塔に上りライン河を見たときそれがオランダの方まで流れるのが見えた
そして平坦だからさえぎるものがなくイギリスまで望まれる感覚になる
そのライン河の河口にオランダという国が生まれたのか?
これも何か地形的な要素がありそうなったのか?
とにかく川はドイツの大地を貫きまたフランスの境界となっている
それはまたローマが支配できない場所とゲルマン民族の国としてライン川はあった
世界でぱガンジス河でも中国の川でもエジプトのナイル川でも長大だから四大文明もその川の側にできたのである

日本の国は比較的その範囲が狭いものとしてあった 

天皇の、香具山に登りて望国(くにみ)したまひし時の御製歌

  大和には 群山(むらやま)あれど 
  とりよろふ 天(あめ)の香具山

  登り立ち 国見をすれば 
  国原は けぶり立ち立つ 
  海原(うなはら)は かまめ立ち立つ

  うまし国ぞ 蜻蛉島(あきづ しま) 大和の国は 」 

          巻1−2 舒明天皇

天香具山は低い山である、そこから見える範囲はかなり狭いのである
各地にある国見山でもあんなに低くはないのである
南相馬市を一望できる原町の国見山でも高いと思う、天香具山は小高い丘なのである
そこから国見するとしたらその範囲は狭い
でもここに歌われているのは海原とかまた国原とか広い感覚なのである
それが謎になる、そんなに広い空間を天香具山に上っても見えないのである 
鴎というときどうしても海をイメージするからである
現実になぜ琵琶湖に鴎の群れがいたのか、それは川を通じて海から鴎が飛んできて琵琶湖に来たとなる、だから大昔は飛鳥の近くは海になっていたしもともと奈良盆地は湖だったということもある、ただそんな昔までさかのぼれるのか今になると不可解になる

南相馬市の国見山から見る景色は広い、太平洋も一望できるしまた片倉のフラワ―ランドからは金華山と牡鹿半島が見えたからそれだけ広い範囲が見える
そしてその石巻の沖が震源地になり大津波がここにもおしよせてきたのである
そういう海を通じて一体化したのが相馬とかでありまた浜通りだったことを地理的に意識したのである

相馬藩内だと飯館までが国意識をもてるかもしれない、なぜなら飯館村は阿武隈高原としていつも南相馬市側から見ているし川でも真野川だと南相馬市内に流れてくるからである原町の新田川でもその上流は飯館村に通じているからである
それで飯館村は実際に鎌倉時代から鹿島の屋形に住んでこの地を支配した岩松氏がいて飯館村も支配していたことでもわかる
だから行政的にも相馬藩内にあった歴史があり古いのである

飯館に久しく行かじ冬の雲山にたれこめ今年の暮れぬ

飯館村はこのように山の向こう側であり山にさえぎられても地理的には一体感をもつのである、でも標高が高いから飯館村は飢饉があった地域である
米の被害が大きかったのである
それで南相馬市の合併を計られたことはそういう地理にあったからである
だから放射能被害でも放射性物質は真野ダムから真野川を通じして流れて来る
それを飯館村だけを隔離して見れない、土地はつながっているからである
飯館村を南相馬市とは別な地域として関係ないとできないのである

うまし国ぞ 蜻蛉島(あきづ しま) 大和の国は

このうましというのは大和言葉としていい言葉である
ただ今になるとうましとは食べ物がうまいということだがそれだけではない、食べ物もうまいがその土地自体がうましなのである
それが放射能汚染でだいなしにされたのである

posted by 老鶯 at 10:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 万葉集
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