ボランティアの最大問題は責任問題?
(中村哲氏に日本政府は警告していた、受け入れ側にも責任があった)
退避勧告を知っていたとして、それでもその地域にボランティアに出向くことの是非はどのように考えればいいのでしょう。
もしも武装グループに拉致されれば、人質を解放するのにかなりの費用が費やされます。そしてこのお金は税金によって賄われることになります。「我々の血税をそんな無責任なヤツらに使うのは許せない・・・」という意見が出てくることは間違いないでしょう
車を乗り合いにしないといけなかったり(人を乗せての事故は怖い)
子供のプールの監視も、何かあったら監視の責任らしく、「ずる休みした人勝ちじゃん!」と思ったり。
ボランティアの者に子供任せる保護者の方のなかにも、なんと無責任なことか!と思う家庭があります。
まるで学徒動員…日本五輪委員会の嘘が招いた過酷ボランティア
。無償ボランティアが貴重な経験とは聞いて呆れる。強制であろうがなかろうが、”タダ働き”というボランティアそのものが罪なのだ。
役員の報酬が悪なら、無償ボランティアの精神も結局は悪なのだ。つまり、タダほど高く付くものはない。
ボランティアはなぜいろいろ問題になるのか?
ここでは危険があるからその危険の保証をどうするのかが問題になる
またボランティアを頼む人にも問題がある
ボランティアはなにかあいまいな無責任が問題
それは頼む方でも頼まれる方でもそうである、人間社会は必ず責任が問われる
だから駅で案内のボランティアしていたがそれも受け入れ体制もないのに勝手にしていたら怪しい奴だと誰か見ていて警察に通報されてみんなの前で職務質問されただけだった
でも自分の場合はなんの危険もないしわずか数十分の案内していただけである
それは無人駅になって駅に立ち寄ったら自然とそうなったのである
今はほとんどしていないけど私は駅でどんな人がくるのか興味をもった
それで話したりしていて後はたまに案内していた
でも相手が必ずしも案内を受け入れるとは限らないから声をかけるのをはばかるときがあった、そのかねあいがむずかしかった
結局案内できたときありがとうと言われただけである
それを認めている人はいない、あの人何しているのというくらいである
だから怪しいとして警察に通報されて職務質問されたのである
人間の社会は何か本当に責任問題が大きいのである、誰が責任をとるのか?
それは原発事故のような巨大事故でもそうである
原発を作るのはいい、でも事故になったら誰が責任をとるのか?
結局誰も責任をとらなかったのである、それは戦争するのもいい、でもこれも300万人死んでも実際は責任をとっていない
でも人間は必ず誰かが責任をとらされるのである
戦争では国民が300万人死んで責任をとらされた、原発で故郷に住めなくなるという責任をとらされた、地銀の人が私はプロですからまかせてくださいと投資信託を頼んだら
損しても絶対に責任はとらない
手数料は確実にもらいあとは顧客のことはあなたの責任ですとなる
つまり責任は銀行ではとらない、頼んだ人がとらされるのである
それは原発でも同じである、安全神話を作り絶対に事故は起きないとしていた
でも事故になっても責任は誰もとらなかったのである
でも地元の住民は責任をとらされたのである
おそらくボランティアの最大問題は責任問題なのかもしれない
それは危険な場合がある、千葉県で屋根にシートを張るにしてもそこに危険がある
子供の世話ですら危険がある、何か事故があったらボランティアがとらされることがあるでも頼んだ親も無責任だとしている
ボランティアをする方にもされる方にも問題がある
そのボランティアで深刻なことが起きたのが中村哲氏が殺されたことである
政府ではテロ組織が狙っているから危険だと警告して行くなと言っていてもあえて行った結果的に殺された、それもガードマンを6人とか道ずれにしたのである
この責任は誰にあるのか?
中村哲氏の行動はただ賛美されるだけであった
でも今回は何かそれだけではない、ボランティアの問題が浮き彫りにされたのである
まずそうした紛争地域にはボランティアが入れるような地帯ではない
つまり受け入れ体制がないのである、中村哲氏はアフガニスタンの英雄とまでされていたからあんなことが起きないと思っていた
でもすでに仲間の若い医師が殺されていたのである
そして政府ではテロ組織の危険を忠告していたがあえて行った
そしてガードマンを6人も道連れにして死んだのである
やはりここにはどうしても手落ちがあった、中村哲氏の責任が問われることにもなった
その功績はあったとしても何かボランティアの問題が浮き彫りにされた事件だった
ボランティアは何か軽いものならいいような気がする
それだって子供の世話だって何かあったら責任が問われるから簡単にできない
私のした駅の案内など何も危険がない、でもそうなると誰も認めない
あの人何しているというだけになる、でもただそうでも何かどんな人が来ているのか話すことで情報を得る、それが目的としてもあったからいいとなる
ボランティアはいかにも何でもいいように見えてそうでもない
だから何かつくづく昔の諺はここでも活きてくる
ただほど高いものはない
人間は無料ですることがかえって高くつくとなる、それはオリンピックのボランティアでもそうだとしている、熱中症の危険があるとしているからだ
だから金を払うべきだとしている
人間のむずかしさはただ無料でしているからほめられるとかにならない
そこに責任が問われるから簡単に何でもボランティアがいいとはならないのである
これは何を意味しているのか?
駅の業務をしないとこれほどまで書いているのか?
それはJRでは責任を問われることを恐れている、駅の業務を頼むとJRの責任になるからだだから高校生の見守り役に限定してNPOをに頼んでいる
その金はJRでは払わない、市の方で払っているのである
でもなにかしら駅の業務が駅員いれば聞かれたりするし何か案内があったりする
それで盲人が一人通っているから案内をすることを言ったらその人はしたのである
別にそれは危険ではないのである
とにかくボランティアで最大の問題は責任問題なのである
一体中村哲氏が殺された責任をどうするのか、誰がとるのか?
ガードマンが6人殺された責任は誰がとるのか?
政府がとるのか?
何かそれが問われる、ボランティアだと別に政府でも責任をとらないということも問題になる、でも政府にしてもアフガニスタン側でも責任があった
アフガニスタン政府でも危険だらか断るということも必要だったとなる
でも日本政府はテロ情報を伝えていて警告していたから日本政府には責任はなかったとなる
こういうことは前も危険地帯に行って殺された人がいたから問題になっていたのである
ただこんなふうに問うと人間は何もできなくなる
現実に今や子供に声をかけもできない時代である
みんな怪しいとされる時代だというのもそうである、それだけ人間の信頼関係が喪失した時代だから
ボランティア自体が盛んなようで実行することはむずかしくなっている
それはあらゆることで責任が問われるからだとなる
そうなると何もしないのが無難だとなってしまうのである
この駅の高校生の見守り役のように仕事を限定してあとは何もしない
それより何もしないことがかえって安全であり責任も問われないからいいとなる
そういう何か窮屈なものにもなってしまうのである
とにかく人間は人を何かしら責めたい、その非を責めたいのである
マスコミ自体が常にそうして人を責めている、それが仕事なのである
でもそんな資格があるのかとなると無責任だからそうしている
ただ人の口に戸はたてられない
必ずなにかにと言う人はいる、そういう人たちはとにかく相手の非を責めることが快感なのである
そして良き行動でも難癖つける、それは自分にもある
そういう人はケチつけるだけで何もしないのである