記憶に残る境の旅の短歌十首
面白山ぬければ山形春なれど残れる雪の心にしみぬ
区堺に電車とまりぬ雪厚くなほも残れり境なるかな
関ケ原なお雪残るここ越えて近江の春の山々望む
上野去り平野開けてみちのくに我が帰るかな秋の陽没りぬ
いわき駅(平駅)北の方へと鉄路見ゆ仙台近く秋の夕ぐれ
飯館の峠を越えむその手前常に休みぬ秋の蝉鳴く
国分けるライン河やオランダへ荷船の行くや秋の夕暮
ケルンの塔高く望みてオランダもイギリスも見むラインも流れて
ヒマラヤの峰々空より望むかなインド中国分けて聳え立つ
大陸や大河さえぎり向い岸望みて帰る秋のくれかな
旅をすると境が記憶に残る、関所がある時代はそこで止められるから必ず記憶に残る
今は関所がないから何か通り過ぎるだけになる
でも境は節目であり記憶に残り安いのである
だから旅を思い出すとき界が記憶になりこうして思い出して短歌にしたり詩にしたりできる
でも記憶していないと後だ思い出すことがないから書けないのである
だから旅というのは意外といかに記憶に残る旅をするかが問題になる
それで余りにも便利な車だとただ通り過ぎて記憶に残らないのである
第一旅という時どういう経路で行ったかが問題になる
ただ目的地につけばいいとなぱビジネスライクな旅でありそれは旅ではない、用事を果たすためだけだとなるからだ
だから新幹線で三時間くらいで平泉についたというだけでは何の感懐もないから芭蕉のような俳句は作れないのである
とにかく人間はその場所によって心も変わる、いわき駅というとき同じ福島県でも相馬も遠いし仙台もさらに遠いと感じた
でも相馬から仙台までは遠く感じられないのである
そのことでもいかに相馬地域が仙台に近いか宮城県に属しているようにもなる
なぜなら福島市は阿武隈高原に遮られて見えないからである
常に何か旅をしても印象的なものが心に残る
上野からみちのくに向かう時、東京のビルの街から離れて平野が広がり秋の夕日が輝き落ちてゆく、その光景がいつも心に残り思い出すのである
その光景が心に刻まれている、だから忘れられないものとして何度でも心に浮かんでくるそういう場所が確かにある、ただ旅をした後にその場所が思い出すのである
でもいくら旅をしても忘れてしまうものがある
この差は何なのか?
やはり景観とかが印象に残り安いのと残りにくいのがあるのか?
それはいろいろな要素でそうなっている、それは旅の仕方によって決まる
だから思い出す旅も不思議なのである、全然記憶に残らない場所もある
本当に思い出せなくなるということはそこに行ったのかとまでなる
外国だと特に変わっているからそうなりやすいのである
日本だと何度も行けるし記憶がそこで蘇るからいい、外国だと一回行って終わりとなるのが多いから思い出せなくなるのである
外国でも川は長大だからそこが境界となる、父なるライン川がそうである
ケルンの塔に上った時、その川はオランダに流れさらにイギリスも見えるように思った
イギリスに海峡があっても30キロくらいだからである
今は海底トンネルが通っているから遠いというものでもないからだ
イメージのなかでイギリスはヨ−ロッパ大陸とつながっているという感じになる
スケールが大きくなるとヒマラヤ山脈はインドと中国を分ける
それは空からその頂上が見えた、ヒマラヤは空からしかその全貌は見えない高さである
タグ:境の短歌十首 面白山、区堺、関ケ原