2019年11月24日

青森の詩(青森の地歴の探求)

青森の詩(青森の地歴の探求)


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青森の詩

青森のその名のよしも
縄文の村、三内丸山の栄
海近く海産物豊かに土地の実り
栗も栽培すると菓子も作る
漆の業もすでに起こり優れる
鹿を追い猪を追い射止めて食す
土器をこねりその造形にこる
その数千年の長き営み
その長き日に争うはわずか
平和の村のそこにありぬ
ヒスイは糸魚川より運ばれぬ
交易は日本海を通じてあり
青森よ、野辺地、下北、最果ての竜飛岬
ここに本州の陸は尽きぬみちのくの外三郡
幻の日高見国、アラハバキ国を語るも
平泉の黄金の栄華もなしも
米のとれぬはと粟や稗を食す
粟在家、稗在家とその名を遺す
太宰治の屋敷に小作の米は積まれぬ
小作は苦しみ恨み呵責になる
高い煉瓦の塀に警察が守る
その貧しさは今は変わらず職なき最果ての地
しかし陸奥湾に一三湊に外部に開け交易ありぬ
しかしその一三湊は砂に埋もれ消えぬ
宋銭のそこよりあまり掘り出される
津浪に壊滅せしとはまことか
津浪は人のものをすべて持ち去る
命も物も根こそぎ奪い何も残さぬ恐ろしさ
標榜として日本海の風はうなり吹雪く
青森の弘前城は古き城
その門の質実に飾り気なく古風に残りぬ
古武士のように何か威厳あり
一時桜に覆われしも
津軽の冬は厳しき
地吹雪き閉ざされ長き冬に耐える
津軽鉄道の終点の中里
その地吹雪きを遮る柵をさして運転手は語る
津軽弁重く濁り聞きとれぬ 
陸奥(むつ)はむっつりのことか
出雲弁との共通がありしとか・・
ここに北前船の来たりて関西の文化伝える
その前より古語もここに残されぬ
この辺境の地にアイヌ語地名も残さるると
アイヌとの交流のここにありしも
青森もみちのくなれどそこは果てなる地
芭蕉もそこには行けず去りにき


東北という時、みちのくなのだけどこれは平泉辺りまでであり岩手県からさらに青森までは入っていなかった
そこは本州の果てでありみちのくでもないのである
歴史的にはそうなっているが青森の地理的特徴は日本海を通じて船が通り交易があった
それが太平洋岸とは違っている、江戸時代でも北前船が通っていたからである
そして青森にも辺境に日本の古語が残ってそれがそのまま使われている
それは沖縄でもそうなのである、だからすでに古代から大和国が津軽まで及んでいた
それはその後の平安時代であっても古いとなる
三内丸山の縄文遺跡はやはり北がそれも本州の果てがかえって西より栄えていた
縄文時代は東が栄えて西はそうでもなかった
それは実証されている、漆でも縄文時代からあり青森でも見事な漆の器は残される
縄文時代は青森であれ北が優位だった

青森はその位置とか地理が魅力的なのである、日本は最果ての地に憧れる
海に囲まれているからそこで陸が尽きて日本は海に閉ざされた国になるからだ
大陸に住んでいたらどこまでも陸を行こうとする、それがモンゴルの帝国形成につながる日本では海に囲まれていてその陸が尽きる国なのである
大陸でぱ鎖国などできない、絶えず異民族が移動して襲ってくるからである

縄文時代は謎である、なぜそんなに長くつづいたかというのも謎である
それもあまり争いがなかった、大きな強い権力をもちえなかった
人口も制限されていた、すると大きな権力は形成されない、邪馬台国ができたときはすでに大きな権力が形成されたのである
だから縄文時代は国があってもその国はクニは小さなものである
国家というのは形成されていない、だから争う必要がなかったともなる
何か小競り合いはあったが大きな争いには発展しなかった
それだけ戦うもの奪いとるものもなかったのである
何かしら富があればそれを奪うために争いになる
ただ何もないと戦争で人を奴隷にする、それで富を形成しようとする
大陸ではこうして絶え間なく奴隷獲得の戦争が行われてきたのである

県名で青森というと青は墓のことらしい、すると最果ての墓の地が青森になるのか
死者を呼びたすイタコなどがいるからそういう風土でもあるのか?
県名としてはあっていた、岩手県でも宮城県でも一応県名は歴史とか風土とあっている
宮城県は古代から多賀城があったからだ
岩手県はいかにもみちのくの奥にふさわしい、そして何か秋田県という名には特徴がない何を現ししているのかわからない、田とも関係ないからである
そして福島県でもそうである、福島市福島城があったからだとかなるがでは会津藩とか相馬藩とかいろいろあってもそういう歴史とも関係ない、風土とも地理とも関係ない
だから福島県の名は何なのだろうとなる
新潟県でもこれも潟が多かったからであり土地の状態を示していたのである
広範囲に潟が多かった
茨城は古代の故事に由来するとかある、福島県はそういう歴史も何も現すわけでもないのである、そもそもなぜこういう名がついたのかわからないのである

いづれにしろ東北という時みちのくというとき一つのアイディンティティとする場である茨城県は関東でありみちのくはやはり歴史風土でもみちのくになる
みちのくで不思議なのはそこは青森になるとそうだが文明と離れた辺境だともなる
何か枯野にあっている、また雪に埋もれた世界だともなる
でも太平洋岸には雪はほとんど降らないのである
でも岩手県だと区堺には深く雪が積もる、まさに区堺なのである、春でも相当まだ雪が残っていたからである

岩手なれ区界(くざかい)になお残る雪

こんなふうになる、ここは岩手県を分ける境なのである
また山形県もその名にふさわしい、その境は仙山線で面白山をぬけて山寺に出るとそこが山形県なのである、ここも春になると雪が長く残っている
そこで天候も変わり雪国になっているのだ、あとは境というときわかりにくい
浜通りは阿武隈高原でさえぎられている、だから福島市とか中通りが見えないから地理的一体感が感じられないのである
ただ蔵王は南相馬市の鹿島区の右田浜からまで見える
そして南相馬市の高台の片倉のフラワーランドが牡鹿半島と金華山が見えた
つまりこのくらいの範囲が見えるから身近になる  
                                                                            
とにかく青森はみちのくでもない、最果てである、みちのくというときまだ平泉辺りまででありそれは文化的領域でもある
つまり芭蕉の奥の細道なのである、ここから奥の細道をイメージするのである
  

その日は野辺地泊。当時南部藩港であった野辺地は、この地 方の経済や文化の中心地として栄えた港町だった。
 翌8日宿を出て七戸へ行く道は荒漠とした原野が続き、道傍に樹木が植えられていた。途中、4人のマタギ(猟師)に出会う。犬を連れ、獣の毛皮で作った外 套を身につけ、それぞれが鉄砲や鉾を手にしている。彼らは「これから熊撃ちに行くところだ。今年はまだ1頭も捕っていないが、去年は5、6頭捕った。熊撃 ちは毎年春の彼岸から始まる」と話してくれた。
 やがて松陰らは七戸を経て五戸に入り、郷士(郷村に住む武士)の藤田武吉を訪ねた。藤田は、五戸に住む60名ほどの郷士は皆禄高が低いために、ほとんど が農業で暮らしを立てていることや、この辺りで多く採れる大豆は馬の背に乗せて野辺地へ運び大阪へ移出すること、近辺に牧場が数カ所あることなどを語っ た。

これは青森を旅した吉田松陰のことである、野辺地は冬にたずねた、駅に雪が積もり野辺地の港が見えた、大阪までもそこから豆を送っていたというのは意外である、つまり大阪まで北前船が運行していたからである

 こんな詩がインタ−ネットに出ていた、まさに雪に氷に閉ざされるのが青森だとなる 

いつの日にか
故郷が冬にとざされたやうに
私の心もみんなとざされてしまった
結氷の下で
魚たちが夢みるであらうあの空を

村次郎 詩集『忘魚の歌』

こういう詩もあり青森は冬は雪に閉ざされた辺境なのである

インタ−ネットは編集するとそれで創作になる、ただ詩とかほとんど出ていない、それで批評ができないのである  

青森に初雪

青森に初雪がふった、このプログに写真がある、こうして青森のことがインタ−ネットでわかる面がある
ただこれも一面である、ただ今の情報が入るのはインタ−ネットでないとできない
毎日の変化を知ることはできない、ただ地方局でもインタ−ネットで放送していることもあり役に立つ
まずこうした地域の情報はマスコミからテレビなどでは得られない
その地域の情報を得るのにインタ−ネットは便利なのである、ただ詩などでも詳しいものはわからないのが残念だとなる

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今昼食のおかずにスーパーで買った

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