2019年11月22日

相馬藩への越中加賀などからの真宗移民はなぜ起きたか? (その土地で暮らしが成り立たなくなっていた)


相馬藩への越中加賀などからの真宗移民はなぜ起きたか?

(その土地で暮らしが成り立たなくなっていた)


 じいちゃんのトチの実拾いの話   富山市加賀沢 

 「加賀沢、蟹寺、小豆沢、米のなる木はまだ知らぬ」という歌を聞いたことがあるだろう。神通川のずっとおくの、山で囲まれて、田も畑もあまりないこの辺りの村では、昔は、米やこくもつが、ほんの少ししかとれなかったのだよ。よそとの行き来もふべんであるし、今から考えると、笑い話に聞こえそうな話だが、食べ物に、いろいろと心配と用心をしたものだ。
 その一つが、村の家の数を決めて、それ以上、家をふやすことができないことにしたのだよ。また、家々の中で、いらない者は、皆、旅へ出してしまったのだ。もちろん、よそから来た者には、家を建てさせなかったのだよ

 じいちゃんのトチの実拾いの話   富山市加賀沢 

 栃餅は会津の山奥でも作られて今でも販売しているしうまい
 食料として山のものを利用していたのは当然であるがそれが手間なのである

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 近世陸奥中村藩における浄土真宗信徒移民の導入
 (木幡彦兵衛の覚書にみのその実態ー岩本由輝

江戸時代中期以後、農村の荒廃による農民の流亡(欠落)が続発すると、幕藩体制の根幹を支える貢租収入減少への危惧から商人や武士と違った欠落農民に対する復帰政策が取られるようになった

相馬藩の歴史で越中からの移民は大きな歴史である、何故なら相馬藩が天明の飢饉からはじまり三分の一に人口が減った、そこに今だと耕作放棄地が多くなった、その穴埋めに移民が必要になった、でも移民というとき幕藩体制では移民は御法度だった
農民を藩内にしばりつけて税をとることが幕藩体制だからである
それでそれを画策した真宗の僧が死刑になったようだと文書から説明しているのもわかる他藩に農民が流出するのは御法度であったからそうなった

ではなぜそれだけの移民が生まれたのか?
それは第一その暮らしている場所で生活自体が成り立たなくなっていたからである
もう移民して他で生活する他ないとなっていたからである
それが昔話で伝えられる、米もとれないから栃の実を食べていた、

「それ以上、家をふやすことができないことにしたのだよ。また、家々の中で、いらない者は、皆、旅へ出してしまったのだ。もちろん、よそから来た者には、家を建てさせなかったのだよ。」

家が建てられない、食料もないとなればなんとか暮らしていける場所に移ろうとする
そして移民した人は次男や三男が多かった、長男は土地をもっているからなんとか生活ができたが次男三男は農業社会で土地をもたないと暮らしていけない
こういう制限があって他者に命がけでも移るほかなかった事情があった
それは今でもヨ−ロッパなどに命がけで移民があることでもわかる
そこで相当数死んでいるからだ、その背後にそこまでして移民する事情があった
相馬藩では天明の飢饉で三分の一の土地が耕作放棄地となった
そこで移民を募ったことがあり土地が手に入れはなんとか生きていけるとなって命がけで移住して来た、だからそれを画策した僧が加賀藩とかで死刑になったとらしいというのもわかる、それは御法度だったからである
ともかく農業社会は土地がないと成り立たない、多少悪い土地でもそこで食料を作る他ないのである
それで相馬藩では加賀泣きというとき苦しくて泣いていたということが伝えられる

ただこうした移民は天保から文化文政とかまでつづいていた、幕末まで相馬藩内に移民が入ってきていたのである、天保というと天保生まれの人が明治にいた、それも青年でもいた、つまり天保は意外と明治と直結していたのである

1803(文化1年年)ー1817(文化14年)
1818年(文政1年)ー1829年(文政12年)
1843年天保14年
1868年明治1年

天明だけではない、その後も移民は幕末までつづいていたのである
天保から明治までは20年くらいである


「お天保,一枚にまけてあげます。」
はつぴ 餅か,それともカステラのやうなものか,それは忘れたが,元気の好い江戸式の法被股引の男
 かみ がかう言って触れ歩くと,大通の店から子供や上さん達が争って出てそれを買った。
 その天保銭一枚の餅は非常に売れた。私は丁度その頃,十一位の小僧姿で,よく立留っては,
指をくはへて,人々のそれを買うのをちっと見ていた。
 それにしても,なっかしい天保銭!
 はふ あの大きな小判形の天保銭! 其時分には,それ一っ投り出して簡単に買へたものが沢山あっ
あだ た。一銭に足りないので,馬鹿者,うっけ者の渾名に使はれたが実際は何うして! 中々便利
な通貨であった。豆腐,蕎麦のもりかけ,鮭の切身,湯銭,さういうものがすべてそれ一枚で間に合った。
「あの小僧,寒いのに可哀相だ。天保銭でも呉れてやれ。」
 かう言って,私は処々でそれを貰った。

天保6年(1835年)に創鋳された。貨幣価値は100文とされ、当百銭とも呼ばれたが、実際には80文で通用した。いずれにしても質量的に額面(寛永通宝100枚分)の価値は全くない貨幣で、経済に混乱を起こし偽造も相次いだという。明治維新後も流通したが、明治24年(1891年)12月31日を最後に正式に通用停止となった。

明治という時すぐに近代化したのではない、江戸時代をひきづっていたのである
寛永通宝の金まで使用していた、天保銭を使うと言うとことはまさにまだ江戸時代だったのである

天明飢饉からはじまり幕末はすでに人口が流動化していた、とても農民を一つの藩でしばりつけて税をとるという幕藩体制の租税の仕組みが崩壊しつつあったのかもしれない
民衆でも一つの時代の変化が起きていた、侍だけではない、底辺での変化が上にも影響していたのである

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戦前のマッチのラベルである、明治ではないとして天保銭をあしらったのは明治時代のつづきとして
まだ時代があったからだとなる、それだけ天保銭の記憶が残っていたからなのだろうとなる

何か私は墓地でもこの江戸時代の年号を必ず見ている
天保は一つの時代の目印である、この年号は結構相馬藩内でも多い気がした
何かあそこにあったなとみる、小高の鳩原にもあったなと記憶する
そこもかなり小高の奥地だから真宗移民が入ってきている
つまり幕末まで真宗移民が入ってきていたのである
天保生まれは明治に活躍した人もいるから遠い時代ではない身近だったのである




posted by 老鶯 at 11:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)
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