2019年11月21日

心(こころ)の詩 (心はここのことー故郷喪失者となった現代人)


心(こころ)の詩

(心はここのことー故郷喪失者となった現代人)

こころはここのこと
ここに生きたから
ここにこころがある
ここに生きたから
ここにこころがある
ここにあなたと生きたから
ここに心がある
ここを離れてこころはない
こころはここに結ばれる
ここに心と心は通いあふ
いつか人はここからいなくなる
でもその人のこころはここにある
いつまでもいつまでもここにある
ここがあるかぎりその人はここに生きている
人の心はここがありて通じ合う
ここを離れて心はない
ここはいとおしい場所
いつかはみな人はここを離れる
そしてここがあるかぎりここを思い出す
それが故郷かもしれない
そういう場をもつこと
ここに心は永遠に生きつづける
ここがあるかぎり・・・・・

心はここだったとういうことは人の心はここにありその生きる場にある
そういう場があって心があるとなる
人は消える、でも場は残っけいる
するとその場からその人の生がありうる
その場に継続している、死んでもその生がありうる
でも場を離れたらもう生は消失する
場とは記憶の場所である、不思議なのは一万年前でもその場はあったのである
その場に人は生まれ生きて消えてゆく、でも場は消えないのである
国のまほろばというとき場のことなのである
それは奈良であるにしろ他にでもそういう場をみんなもっている
ただ東京とか大都会になるとそういう場は消失している
高層ビルが都会のビルの谷間が場と成りうるたろうか?
まず人ごみの雑踏には出会いがない、そもそも出会う場が欠けているのである

だから原発事故で故郷を離れてしまったときその場を失い心を失ったのである
それは金で補いないものだったのである
でも別にそこに生きて入る人はそれを感じて生きてはいなかったのである
だから石川啄木の望郷はまさに故郷をそういうかけがいのない場として心の中に浮かんで来て泣いたのである
つまり二度と故郷の場を踏めなくなったからである
それほど場とは影響している、ただ現実は場より金だとなっている
老人はどうしても場に愛着があり帰りたいとなるが若い人はそう思わないのである

やはらかに柳あをめる北上の岸辺目に見ゆ泣けとごとくに 石川啄木

これは彼の中に場の記憶が浮かんできたのである、ただ啄木は本当に早熟の天才だったからこうなった、普通の人はこんなふうにならない、むしろ窮屈な田舎から解放されていいとも思っている
ただ場所には魂が宿る、だから万葉集はそういう場の原始的感情が歌われたともなる
なぜなら必ず場所と深く結びついているからである
ただそれは現代人は故郷喪失者となって理解できなくなっている

みちのくの真野の草原遠けれど面影にして見ゆというものを 笠女郎

草原というのは場なのである、地名なのである、この歌は本当に不思議なのである
想う人がたとえみちのくの真野の草原という遠い場所に行っても私はあなたのことは忘れませんよとなる
でも笠女郎が真野の草原の地を踏んだわけでもない、ただ遠い場所として知られていたのである
ただ万葉集には地名がよまれるのはその場を意識することが多かったためである 

やまとはくにの まほろば たたなづく 青がき 山ごもれる 大和しうるはし. 

これは日本は盆地が多いからそうなる、でも海に面しているから必ずしも国のまほろばとはならないのである、みんな盆地に住んでいるわけではない
海に面して住んでいる人も多いのである
だから国というとき実は意外と狭い範囲である、小国という範囲とかになる
啄木は北上川の岸辺を思って泣いたというときそこは盆地ではなく川だったとなる

外国だとドイツだったらライン川なのである、ラインは父なる川でありそれを詩に歌っている、日本ならまず父なる川とはなりえないからである
いづれにしろ文化でも芸術でも人間は土地の産物なのである
その土地をもたない人は文化も芸術もあり得ないのである
だから東京に文化は生まれない、経済とか科学技術とかあっても文化は生まれない
文化を育む土地がないからである cultureはcultivate(耕す)だからである
ヨ−ロッパでも地方の小都市から文化が生まれた、ルネサンスが生まれた、フィレンツなどがそうである、大都会から生まれようがないのである

現代人は故郷喪失になったというときそれは生きる場の消失だったのである
何かグロ−バル社会であり広域社会でも輸送社会である
絶えず輸送している、遠くと結びつき近くがおろそかになる、近くがかえって意識しないその心はここにあるのではない、常に情報でも外国へ向いているのである
そのことから何が起きてくるのか、take place(起きる)のplaceがない
rooted placeがない、ただ場と遊離した情報を絶えずテレビであれあらゆるもので流される、でも場から離れているから実際に理解したとはならないのである   

He has a place in the country. 彼はいなかに別荘を持っている.

look for a place 職を探す. 

displace(解雇する)

別荘を家をもつことを場をもつと表現している、家ではなく家は場でもあったとなる、またplaceは職業になっている
だからdisplaceは場所を持たない人になることである
look for a place 職を探すは場所を持つ人になることである

とにかく現代人は心を失ったのはその場を失ったためである、場というのはただ金があるからは消費者になっていては場の力が働かないのかもしれない
本来は場に根付く生活になると農業とかになる、ただ農業以外でも場に根付くことはあり得る、でも商業となると遠くとの交流となるからなかなか場に根付かないということはある
ただ商業社会輸送社会になりすぎたのである、結局いくら物がいくらでも入ってきても
その物を作る人と売る人と心は通わないのである、地球裏側から果物でもなんでも入ってきてもその人と心を通うことはないのであるここがあって場があって心が形成されているからそうなる

ふるさとに老いて語るや秋となり夕日輝き山に没るかな

何か同級生がいて語っている時そうだった、故郷という場を共有して語っていたのである今や現代人が何か数字のようにロボットのように機械のようになっている、ならされている、それは場が消失したためである
場はとても地図化しても計れない神秘的なものを依然としてもっているからである
本当にその場のことは自ら踏まない限り会得しえないのである
それもその土地とか地勢とかを理解するには鉄道でも車てもできない
土地の高低などわからないからだ、峠のことなども車だと簡単に上れるからわからない
自転車だとそうした土地の高低で苦しむ、峠を越えるとなる本当に苦しくなるから体で土地のことを地勢を理解するのである
だからその土地のことを地理を一回くらい行っても理解できないのである

場所の現象学―没場所性を越えて エドワード レルフ 

これは何回も読んでその意味を深める本である

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