里は何なのかー故郷(ふるさと)の考察〈古代史より)
「地域」の「地」は、蛇がうねる土地を指すそうです。「域」の「或」は国を指す。地域や自治体は、ある意味、小さな国家なのかもしれません。小さな国家をどう再生していくのかが、みなさんの今日的課題です
限界集落の真実―過疎の村は消えるか?―過疎の村は消えるか?
http://www.jamp.gr.jp/academia/pdf/115/115_04.pdf
古代日本において郡の下に置かれた里(郷)のおさ。〈りちょう〉とも読み,また〈郷長〉と書き,〈ごうちょう〉とも読む。官人には属さないが,律令制下の地方行政機構の最末端に位置した。戸令によれば,50戸をもって里とし,里ごとに長1人を置いた
「五十戸良」とあって「さとおさ(里長)」の意味であり、万2251では「守部乃五十戸」と書いて「守部のさと(里)」と読ませている。
法師の報ふる歌一首
檀越(だんおち)やしかもな言ひそ里長(さとをさ)(五十戸長)が課役はたらば汝も泣かむ(巻16・三八四七)
檀越とは後で檀家になった、里長が一つの租税の単位としてあった
この意味は檀越が租税の対象にはならず免除されていた、でも租税されたらあなたも泣くだろうという意味である
私腹を肥やしていたことが窺える。当時の仏教界は、信仰心によって維持されたのではなく、食封を有するという特別待遇を保持するために三十年間存在していたことが分った
https://www.jstage.jst.go.jp/article/nihonbungaku/62/5/62_20/_pdf
耶麻郡猪苗代町大字堅田字壇越
山王宮再興大壇越 中務大蔵朝臣種照
猪苗代にもその言葉が地名として残っているのはそれだけ古いのかとなる
神社でも壇越という言葉があるのも仏教が神社に影響してなったか?
宗教とはヨ−ロッパでもカトリックが土地を所有していたように権力を得るために利権団体となったのである、それは檀家もそうでありカルト教団でもそうである
権力を得るために宗教があるだけになっていたのである
だからここの論文でぱ平城宮とか奈良の大仏とかでも民衆が批判していたともなる
仏(ほとけ)造る、ま朱(そほ)足らずは、水溜まる、池田の朝臣(あそみ)が、鼻の上を掘れ
これも皮肉である、僧侶が朱がたりないなら僧侶の赤い鼻を掘れということは僧侶が憎々しく民衆が思っていたのである、僧侶は利権化して私益を得るためのものになっていた批判が奈良時代からすでにあった
ここでは里が最初の生活する者の単位であった、村ではないのである
村はもっと大きな範囲なのである、日本人の生活は基本は里だったのである
それは50戸くらいが住んでいる範囲だったのである
村とは群れるから来ている、これは外来語らしい、そこには人の数を意味しているのかもしれない、人が村にいくらいるのかということになる
その数は相当に多いのである、里とは土地と切り離されずある、50戸が生活できる土地があるということになるのが里である
「地域」の「地」は、蛇がうねる土地を指すそうです
地とは土地のことであり地は里に通じている、国となると区切るから来ているから囲む土地ともなり境界が生まれる
さと、むら、くに、いち、みやことかある、その言葉の背景にはその国の歴史がある
市民ということば国民という言葉が明治以降作られた、でも日本にはその言葉がなかったということはそういう言葉の実体となるものがなかったからだとなる
なぜcitizen(市民)という言葉にヨ−ロッパではこだわるのか?
その言葉の背景に歴史があり歴史的に形成されたアイディンティティがあるからこだわるパスポートにどこの市民なのか記さねばならないのはそのためである
日本だったら市(いち)はあったとしても市民はいなかったからである
地域の域となると人工的なものとなり境が行政的権力で決められる
郡(こおり)でも郡は軍隊から来ているからである
例えば真野郷と真野里がある、郷里名ではなく里として表現している
それは真野郷となると広い範囲である、鹿島区の真野という地域は上真野まであり広いのである、でも真野里とあれば50戸が住む範囲だとなる
それは古代の常陸に真野里とありその人たちがこの地に移住して来たと思われるからである
いづれにしろ村ではなく里が日本の最小の生活単位でありコミニュティの場だったのである、その里はその土地で生活できる範囲の小世界だった、それで小国というときそういう最小単位の里が延長したような世界だったとなる
現代はもう里は失われている、その大きな単位の村でも失われつつある
それは農業社会から工業社会になったとき失われたのである
でも不思議なのは故郷というとき古里であり里なのである
すると人間はみんな故郷を失ったともなる、故郷はもうないとなる
原発事故で避難地域になった所は故郷が喪失した
でももともと浪江町の原発で働いていた人が言っていたように里とか村とかに住んでいたわけではない、東電の会社員となって2万人も住んでいられたとなっていた
だからその人は周りの田畑が草ぼうぼうになっても関心がなかった
都会人と同じとなっていたからである、だから故郷(ふるさと)とは何かとなればそこに執着するものもないとまでなる
なぜなら生活が第一であり東電で働いて生活できればいいとなるから都会に移って住んでも違和感がないとなる
そういうふうに故郷の里にこだわることはない社会になっていたのである
だから多額の補償金をもらったときその金の方が大事であり故郷には里には帰らなくなったのである