実り(旧街道は歩くか自転車がいい)
柿なりて代々の畑耕しぬ
朝露の稲穂に光り野良仕事
秋の蝉朝に聞き入りいつもの道
遠くへと来たり舞いけり揚羽かな
相馬藩街道に実り今日の宿
松による旧街道や秋の風
街道の昔やあわれ秋柳
ここでは陸前浜街道がある、六号線は旅の道とはなりにくい、街道は何か人間的なのである
「奥の細道」のように道が細いと人間的になる、道の辺の花にも目をそぞくことがある
六号線は車の行く道である、荷物を運ぶ道である
街道はだからなるべく車が通らないのがいいのである
それは人間回復の道でもある、だから仙台から来た人たちが昔の街道を歩いたのはいいことである
陸前浜街道で一番いい所は城跡まで行く松並木である、そこではすでに城を意識するからである
現代はまず旧街道を知るにしてもとぎれとぎれにしか知ることはできない
すべてが車の道となっているからだ
旧街道は人間的な道なのである、観光という時、そういう旧街道とか見逃されている
一続きのものとしてではなく、ただ遠くに行く、旅の目的地までゆく途中が省かれているから旅にならないのである
道とは連続したものでありそれで風景でも連続したものである
とにかく不思議なのは歩くとなるそれが新鮮な体験となるのだ
自転車でもそうだが歩くことは本当に確かに大地を道をふみしめて過去に帰ることである江戸時代の感覚すら体で体験できることなのである
人間は必ず過去が失われてゆく、すると過去を懐古するようになる
要するに現代はもの凄く変化のスピードが早すぎたのである
それで何かもう精神的にも消耗したのである
正直自分はバイクさえ嫌いである、それは突然ぶっ飛ばしてきて乱すのである
車とかバイクでもそれは何か非人間的なのである
最近老人と会うと自転車に乗る人と話する、85歳の人も自転車に乗るようになってかえって医者から調子良くなっていると言われたという、それは自転車に乗っているからだとその人は言った、自転車に乗る人は仲間になりやすいのである
バイクに乗る人が仲間になりやすいのとにているのである
いづれにしろ私は旅ばかりしていたから感覚的に家にいてもいつも旅している感覚になってしまった、常時旅している感覚になってしまったのである
それで相馬藩内でも街道を自転車で行けばそれも旅なのである
そして家すら一時的に滞在する宿のような感覚になってしまっている
ふりかえればそれだけ旅したためだとなる
現代は旅人はいないし旅人になれない時代である、それは皮肉にも交通が発達しすぎたからである
新幹線で二時間くらいで平泉に来たらもう旅はないのである
便利になりすぎて失われるものも相当にあったとふりかえる
だからそうしたものが見直されてゆく時代になる
経済学と民俗学が関係あるのかとなるとやはりそこにも現代のグロ−バル経済がどれだけ人間的なものを喪失させたかを比較するとわかるからである
相馬藩内の実りがありまた相馬藩を出れば他藩の実りがある
この実りというとき米の実りではあるがまた様々な実りがある、文化の実りもある
そういう季節である、だから実りがない小高とか浪江は荒涼としているのである
八沢浦は一部でも実りが回復したから違っていた
そこに蔵王を望んだとき豊かさを感じたのである
今年は10月になるに暑い、だから秋にしては気候的におかしい、秋涼という感覚がない一時はあったが最近今日でも暑いのである
「秋暑し」という季語があってもそれとも違う、何か夏なのである
それで揚羽が飛んでいて夏だとも感じたのである
揚羽は夏の季語だからである