2019年09月18日

綿津見神社が相馬地方に多い謎の解明(2) (照葉樹林帯の南限の地だったから・・)


綿津見神社が相馬地方に多い謎の解明(2)

(照葉樹林帯の南限の地だったから・・)

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外来系と土器と称される喜納東海・北陸地方の土器、あるいはその影響受けた土器が関東や東北地方から発見されると政治社会体制の変革によって各地に古墳が出始めることは
極めて関連があって、場合によっては東北地方の古墳年代も関東地方の古墳年代とほとんど変化がないことがあるだろう
今や〈未開の地)(辺境の古墳)という意識では学問姿勢でぱ史実の古代史研究は進まないだろう 

東北における古墳文化の成立と展開)
大塚発重   

古墳時代の海洋民について 西川修一

豪族とは安曇族である
さて、新聞記事の中で西谷正氏は被葬者に関して
「この地域の有力者・宗像氏と並ぶ豪族」と指摘されています。

この地域の豪族って言ったら、安曇族ですよね。
新宮あたりを中心に、阿曇郷があったほどですし…。

Q その安曇族と宗像氏の関係は?
A 両族は共存共栄していました。

その証しとして、荒雄の遭難事件が今でも志賀島では語り継がれています。

荒雄らを 来むか来じかと 飯盛りて 門に出て立ち 待てど来まさじ 
ほか九首                           <山上憶良>
(略)
荒雄の遭難事件は、官から対馬向けの食糧の運搬を請負った宗像部津麿が老齢を理由に志賀村の荒雄に交替を頼んだことに端を発する。荒雄は現在の長崎の五島から対馬に向け出航したのであるが、途中嵐にあって遭難、帰らぬ人となったのである。

四世紀の初頭、「邪馬台国」の東遷によって、それまで河内、大和にわだかまっていた物部氏族の一派が、近江を経て東海地方に東進を余儀なくさせられたのではないかということです。物部氏の一部は、おそらくナガスネヒコに代表される蝦夷と共に東を目指したと考えられるのです。 

大和王権が成立する前に物部氏とかが大きな勢力でありその物部氏がナガスネヒコと結び大和王権と対立した、蝦夷とは物部氏とかまた海洋民の安曇族とかでも古い氏族でありそれが東北地方に居住していた
そこに渡来人も混じっていた、伽耶の国のカヤ族もいた、そういう様々な人たちの連合体が蝦夷だったのである
だから大和王権にとって強敵となったのである

ただ相馬地方では物部氏の伝承があるにても明確ではない、物部氏系の神社もわからない、わかっているのはとにかく綿津見神社と山祇(山津見)神社がやたら多いのである
となると明らかに相馬地方は安曇族とかの海洋民がやってきた開いた土地だとなる、これだけ綿津見神社が多いことが証拠なのである
桜井古墳はその海洋民と関係しているのか?東海地方と似た様式であるとか東海地方と同じものが何か遺物として発見されたとかあり東海地方に特に静岡県に安曇氏の痕跡を多く残しているからその辺から移住した
ただ船といっても当時の船は遠洋航海は無理だとしても航海民は海を通じて海岸線にネットワークを持ちやすいのである
今でも船は他の港を利用しているし人間として関係を築いている、ネットワークがある
遠くでも港を利用するから関係が生まれる、つまり海というのは航海する道であり港は一時的に休憩する場となりやすいのである

それでいわき市から途中に港がありそこを経由して移動することは可能である
それよりネットワークが生まれるというときその港々に住みついているからその住みついた人の援護があり新しく安曇族でも一族として連帯があり案内もされるから海岸線に広がったとなる
その基は九州にあったが何らか東北地方に移動せざるをえない状況が生まれたのかもしれない、物部氏は仏教派の蘇我氏と争ったりして東北地方に逃れた、物部氏が一時は日本を支配していたと言われるからその痕跡を日本全国に残している
ただ物部氏系の神社は残っていてもわからない、綿津見神社と山津見神社は飯館まで残っている
山津見とあっても山の神社とは限らない、飯館村には綿津見神社もあるからだ、これは対になった安曇族などの神社なのである

安曇族が移住した地とされる場所は、阿曇・安曇・厚見・厚海・渥美・阿積・泉・熱海・飽海などの地名として残されており、安曇が語源とされる地名は九州から瀬戸内海を経由し近畿に達し(古代難波の入り江に、阿曇江(あずみのえ、または、あどのえ)との地名があったと続日本紀に記録される)、更に三河国の渥美郡(渥美半島、古名は飽海郡)や飽海川(あくみがわ、豊川の古名)、伊豆半島の熱海、最北端となる飽海郡(あくみぐん)は出羽国北部(山形県)に達する。この他に「志賀」や「滋賀」を志賀島由来の地名として、安曇族との関連を指摘する説がある

渥美半島は知られている、それは安曇族が定住した場所だからその名がついた、宗像(むなかた)も出雲から逃れて来たタケミナカタだとされている、出雲で国譲りして東北に逃れて来た、東北のズーズー弁と似ているというとき同じ系統だったのかとなる
相馬地方に綿津見神社がこれだけあるということは安曇族など海洋民がここに移住して飯館村の山の中に入り住みついた
海洋民は船の操作にたけていただけでなく様々な技術を要していた
だから農耕にも従事で来たとなる、佐須は焼畑地名であり焼畑を行ったのも海洋民であり安曇族だったのかとなる
縄文人は焼畑をしていないからである、そうした技術がもっていなかったからである
これは重要である、焼畑、鉄の生産とか農耕から航海術とかは海洋民によってもたらされたものなのである

一方、耕地利用率の低い焼畑農耕は耕作適地の不足をもたらす。そこで、この水辺民集団は組織的な植民活動を思いついて行動計画を作った。今からおよそ一万三千年前にその計画は実行に移され、突出した二つの技術、すなわち焼畑農耕技術と製鉄技術を独占する植民集団が、ランナ型植民方式による東進を!   

宮崎氏は南部朝鮮と北部九州を往来していた漁労民は海人族である穂積・安積(阿曇)であるとしている。半農半漁からその一部が水稲栽培に専門化した海人族は、未開拓だった海岸線のデルタをほとんど利用しつくし、しだいに川をさかのぼり、耕作可能な地を求めて日本全土に散っていった。その歴史は、穂積・安積(阿曇)の全国的散らばり方や、諏訪湖畔までさかのぼっていった実例が物語っている。

稲作伝播以前の日本は、文化的にはマレー・ポリネシア文化圏とつながっていたのです。イネが伝播する以前から日本では焼畑農業を行なっていましたが、そこで重要な作物だったのは里芋(タロイモ)と山芋(ヤムイモ)だったはずです。
 タロイモもヤムイモも、その栽培種は東南アジアが原産のものです。東南アジアの熱帯林に入ると、野生のタロイモやヤムイモを見ることができます。稲作開始以前の日本の農業文化は、マレー・ポリネシア地域の作物と農業技術が伝わって形成されたものと思われます。
 ちなみにマレー・ポリネシアの文化圏では、ヤムイモのことを共通して「ウベ」とか「ウビ」などと呼んでいます。日本語の「イモ」という単語は、「ウベ」が「ウモ」になまって伝わり、さらにそれが「イモ」に変化したものと思われます

具体的には、根栽類の水さらし利用、絹、焼畑農業、陸稲の栽培、モチ食、麹酒、納豆など発酵食品の利用、鵜飼い、漆器製作、歌垣、お歯黒、入れ墨、家屋の構造、服飾などが照葉樹林文化圏の特徴として挙げられる。照葉樹林文化論を肉付けする形で稲作文化や畑作文化なども考証されている。

日本の文化は照葉樹林帯から入ってきた人たちがいた、その人たちと密接な共通性がある、だから言葉でもそういう人達が住んだ地域と深く関係して伝えられた、朝鮮半島に榊(さかき)とか樒(しきみ)とかが生えていない、寒い地域だからオンドルが生れた
そして魚がいても魚をとることができないからと倭人が魚をとることを生業としているからわざわざ韓国で招いて魚をとらせたという記録がある、韓国は遊牧民系であり照葉樹林帯の文化とは根本的に相違しているのである 、今でも海苔を韓国で作っているがもともとその技術はない、日本からまねたものなのである、そして韓国由来のものより日本由来のものが多い、韓国の伽耶地域にある前方後円墳は日本由来なのである、ということは逆に伽耶地域は日本府の任那があったように日本の支店のような地域だったのである
確かに一部には製鉄技術者などが入ってきたとしてもそれにまつわる神社があるにしても相馬地方だとむしろ安曇族系の綿津見神社が圧倒的に多いのである、だからここに注目せざるをえないのである、
そしてなぜ相馬地域に綿津見神社が多いのか?それはここが照葉樹林帯の南限の地だったからだろう
車輪梅(マルハシャリンバイ)が自生していた、それは奄美大島に見られるものだったからである
原町の多珂神社のすぐ近くにスダシイがあり神社があるのもそうである、南方系の植生の南限の地だったからだともなる

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列島東部における古墳時代の海洋民文化の重層性

この図のように海洋民というときそれは漁業だけではな、鉄の生産にかかわったり、農耕にもかかわる一集団でありそれらの集団が大挙この辺に入って住みついたとしか思えないのである、その証拠が綿津見神社や山津見神社が多いからである
その神社があるのは先祖を祀るから多いのである
そして海を渡り海からやってきたのだから海岸に上陸するから海岸が重要な場所となる
それで海岸沿いにある古墳は安曇族のものかもしれない、それは海から見える目印となるからである
そして当時の海は海が深く入りこんでいた、今回の津波でわかったように相当に陸地の奥まで海だったのである
するとその海が生活の糧となる、魚や貝類を食べる、鹿島区の桜田山の下では魚の骨とか鹿の骨が発見されている
江垂とは海が迫っていた場所だったことがこれも津波で明らかにされたのである

横手古墳群でもそこに縄文時代や弥生時代の遺跡が密集していた、つまりもともと縄文人や弥生人が住んでその上に安曇族とか渡来人が来て住みついた場所だったとなる、そこは海が相当に入り込んでいた場所であり海岸でもあった
鹿島区にはまた本当に古墳が多いのである、古墳の町なのである、桜井古墳は大きいのはやはりそこで大きな集団をまとめるものがあった、それがどういう集団だったのか?海洋民の安曇族と物部氏だったとなる
二つの石棺はその首長となるものが和合するものとして桜井古墳が作られたともなる
大田神社のある奥の多珂神社は多賀神社とは違う系統でありヤマトタケルが東征した伝説のタケミナトである
それは安曇族の海洋民がベースとなって作られていたのである  

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鹿島区で前方後円墳は二つしかないというとき一つは金銅双魚佩が出た寺内でありもう一つは塩アの船着にあった
ここは重要な場所だったのである、交易がおこなわれた市庭という地名もあるからだ
この船着のすぐ近くまで鉄道のトンネルをくぐり津浪が来ていたのである
ただ前方後円墳のある正確な地点はわからないが近くにあったことは間違いないのである  

なぜ日本が最初海洋民が入ってきたのは

森林深く道路は禽鹿の道のごとし(魏志倭人伝)

こういう状態でありすると海が交通にはいいのである、確かに海は危険なのだけど海岸線には入江が多い、だから湊がありそこから内陸部に入ってくる、だからなぜ鹿島区の塩崎に船着がありそこまで船が通っていたのか?
それは頻繁に通っていたのである、なぜなら曽我舟という大内の地名は船が遡ってゆくという地名だったからである
その船はどこから来たかとなると鉄を生産していた今の東北電力がある場所なのである
すると余りにも近いとなるが近くても日本は道がない、うっそうとした森に覆われていた
それから海岸は湿地帯である、すると船が交通には便利なのである
それで泉官衙跡まで新田川があるのに運河を作っていた、それも今なら短い距離なのである
でも湿地帯になっているから船で行くほかないのである
だから日本は原始の状態だと山あり森ありで通行しにくい、閉ざされた世界になってしまう
森というけどそこは鬱蒼とした森であり真っ暗な闇だったのである
そこに縄文人が住んでいた、でも縄文人は海岸にも住んでいた、魚や貝がとれたからである
そこは森とは違って明るい場所だったのである

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遮光土器の謎は目が大きいのだから大きな目をして見ようとすることだったかもしれない他に目が大きくしたものが中国でも残っている
目はやはり人間の中心なのである、目に力がないものは目を直視できないものは心も直視できない、汚れているとなる
そしてうっそうとした暗い森では余計に大きな目をもって見ようとするからそれで目が大きくなったともとれる
ただそれは森の中である、海岸だと海が見えて見晴らしがいいからそういうことがないともみる
でも大きな目はやはり原始的人間が自然でも見ようとする、見ることが大事だから目が大きくなった

いづれにしろ古墳時代は福島県から宮城県辺りまで巨大化した、数も多い
古墳時代は弥生時代であり稲作も行われたから東北が今までの辺境だという観念は見直すべきだというのはわかる

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相馬市史3(民俗編)

富岡でも綿津見神社が四八社とかあるとか港は船を通じて遠くでも人を結ぶ
相州浦賀は横浜であり伊豆の伊東であり久慈浜とも関係していたことでもわかる

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みちのくの真野の草原(かやはら)は気候の境界線

(照葉樹林の南限の地点)

posted by 天華 at 09:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)
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