2019年08月20日

南相馬市鹿島区真野地域(小島田、大内村の歴史ー1300年代の人名が記されていた)


南相馬市鹿島区真野地域(小島田、大内村の歴史ー1300年代の人名が記されていた)

●相馬氏の「一族」「若黨=家人=郎従?」「中間」

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若党(わかとう)      

『貞丈雑記』に「若党と云はわかき侍どもと云事也」とあるように本来は文字通り若き郎党を指したもの[1]であるが、江戸時代には武家に仕える軽輩を指すようになった。その身分は徒士侍と足軽の中間とも足軽以下とも言われた。「若党侍」とも呼ばれるが士分ではなく大小を差し羽織袴を着用して主人の身辺に付き添って雑務や警護を務めた[2]。一季か半季の出替り奉公が多く年俸は3両1人扶持程度であったため俗に「サンピン侍」と呼ばれた。


相馬氏の一族のことで千葉氏のことを詳細に書いているサイトがある
それを分析すると南北朝時代にすでに住んでいた人の名前が記されている
そこで注目したのが小嶋田と姓を名のる人がいた
江多利(江垂)六郎入道と名のる人がいた

仏道修行に入ることだが、とくに出家剃髪していながら在俗の生活をおくる者にいう。それから坊主頭の人を入道というようになり、

その土地の名を名のることは普通にある、それはその土地に土着したことなのである
江多利(江多利(江垂)六郎入道)六郎入道とあれば今の江垂に住む坊主頭の世俗の人だとなる

家人(けにん)とはその家に仕えるものなのか、また妻が夫を家人と呼ぶこともある
身内の人だとなる、侍は一つの家を中心に使う者と仕える者がいた
この表では姓がある者とない者がいる、中間とかなるとない、若党も中間とにていたが姓を持つものがいた、家人でも姓がない人がいた
この表でぱ若党はみんな姓をもっていたからまた別な役割をもっていた、格はは高かったともなるのか?
姓を名のることはよりその一族と一体化した人たちだったとなる

この表に注目したのは1300年とかなるとこの辺では古い、普通は江戸時代以降でようやく人物名が明確になる、その頃すでに姓があり土着して住んでいた人がいた
だから小島田は意外と古い地域だということがわかる、江垂もそうである 

小島田が古い地域であるという時、12年に一度行われる「お浜下り」の祭りで行列が小島田村に入るととき儀式がある、つまり小島田村は重要な村であり昔は境が大事でありそこを通るために許可が必要だとかなりそういうシキタリが残されていたとなる
郷土史では村の新旧を知ることが基本である
小島田村は古いが右田村は江戸時代に開拓されたのだから新しい
海老村は弥生時代の遺跡が津波の跡から発見されたから古いとなる
古墳のある寺内なども古いのである、古墳がある所はわかりやすいとなる
それで日下石に前方後円墳があった、それは津波が近くまで迫っていた地域だったのである  

今回小島田村も津波の被害があった、大きな被害にはならなかったが被害があった
ただ常に言うがこうして南北朝時代から集落があり古いのにこの辺では津波に関する伝承が残っていないのである
慶長津波は江戸時代になるときであり1611年である、1300年にすでに人名が明確にこのように記されて住んでいたのである、でも津波に関しての伝承がないのである
小島田という地名はこの辺が湿地帯であり島のようになって田があったとなる
そういう土地であった、大内の袋村は江戸時代に開拓したが消えたのは海側と河口に近く開拓できなかったのである

いづれにしろ真野という地域は古い、古代にさかのぼりそこは入江であり塩崎に船着という地名があり市庭という地名があり船が行き来していたのである
ただこの船は今の東北電力の火力発電所がある所で大規模に鉄の生産をしていたのでその鉄などを運ぶのに船を利用したと見る
そんなに遠くから古代には船は来ないからである
ただ頻繁に船は行き来していた、大内村に曾我船とある地名は船がさかのぼるということから名付けられた、ということは船が頻繁に来ていたからだとなる
泉かんがあったがそこに運河作られていて船が行き来していた
そうすると短い区間でありそこを船を利用していたのである
なぜそんな短い区間をわざわざ運河を作ったり船で行き来したのか?
それは湿地帯とか道が作られていないとかあり川とか運河でも海でも通行しやすいためである
そして大内村には800年の坂上田村麿の関係する薬師堂がある
これは古代にさかのぼるから大内村は古いとなる

いづれにしろ真野地域は南相馬市の鹿島区では一番古い場所だとなる
それは古代からつづき中館があり真野五郎が住んでいた
そこち南北朝で霊山から逃れた侍が住みついた
古代になると名前が姓があって人物名がないがこの頃になると明らかに人物名がはっきりとして残っている、それは相馬氏一族関係者であり霊山から落ち延びてきた南朝方の侍なのである
ただ霊山から落ち延びて来た桑折氏がいた真野で桑折五郎となのった
その前に土着していた真野五郎がいたとなる、ではなぜ五郎なのか?名前をとったのか?
それも謎なのだが五郎とか八郎とか九朗とかの名前が多いのはそれだけ兄弟が多かったためだろう
今でも八郎となれば八人目の子供だとなるからだ、今はもう子供の数が多いからそういう名前はないのである
次郎太郎とか普通にあったがそれすら今はなくなる時代だからである

鹿島の街内に住む只野氏はその子孫である、只野氏には何か古い資料が残っているとか聞いた、そして謡(うたい)として伝承を伝えていたが個人の家だけなので伝えにくくなったと聞いた、伝承は謡(うたい)として歌として残されていた
もともとは文書ではなく謡(うたい)として残されていた
それが祭りだとなる、でもなかなかその伝承も継承できなくなる
個人だけではやがて消失する、そして祭りを継承する村とか共同体がなくなると個人だげでは継承できなくなる、それで現代は村の祭でも継承できなくなり廃れてゆく
少子高齢化や過疎化で廃れてゆくのである
祭りはやはり共同体があって維持できるからである 



鎌倉時代1185年平氏が滅亡、源頼朝が守護・地頭の任命権を得る(鎌倉幕府の成立)
1192年源頼朝が征夷大将軍となる
1274年元寇、モンゴル帝国の襲来
1333年鎌倉幕府が滅亡
1334年建武の新政が始まる
1336年 室町時代南北朝の動乱
1338年足利尊氏が征夷大将軍となる
1392年南北朝が統一される


千葉氏一族の歴史

ここのサイトから著作権違反を指摘されたことがある
だから引用もむずかしいところがある
ただ一部の表をここに出した
こういうものも指摘されれば出せないとなる
でもそうなると学問的には発展しないとなる
なぜなら学問とは共同研究になるからである
全国になると特に広いからそうなる、そこでインタ−ネットは学問でも素人でも資料とか論文を読めることで参画できるようになった
それであまり著作権を言うと研究も発展しないとなることは確かである




posted by 老鶯 at 20:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)
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