盆踊りは死者も一緒に踊る祭り
(日本の心は村で培われたーでも今は失われた)
これが死者を供養する本当の盆踊りだ、一人ひとりの踊り手の後ろには、この人たちを可愛がってくれた両親やお爺さんお婆さん、そしてそれに連なる御先祖様がお盆に帰ってきて、ここでともに踊っているのだなぁ、とそんな事を考えながら、めったに見る事の出来ない盆踊りに、独り乾杯したことが有ります。
あれから三十数年、あの時死者を供養していた踊り手の内何人かは、今はもう供養される側にいるかも知れませんがそんな事は大した事ではありません。
盆踊りでは死者の供養のために死者とともに踊るという
死者も一緒に混じり踊る
これは何なのだろう?
こういうことは何か最近わかるようになった
それは家族もみんな死んだし回りの知っている人も死んだ
それで私は葬式などしなかったがお悔みとかもらったのでお返しした
本当にその人たちは近所の子供の時から知っている身近な人たちだったのである
そういう人たちが相当に死んだ
そういう死んだ人たちはみんな小さなコミニュティでずっと生きていた人たちである
すると死んでもつながりがキレルということはないのである
そういうことが特に村社会では何か理屈ではなくあったことがわかる
村のような狭いコミニュティではみんな一人一人顔見知りであり知っているからである
すると死んでもその子供や孫とかがいて人間関係が継続する
それで寺がその中心になっていたのである
ただこれは仏教とは関係ない、仏教も日本化した祭りに変化しているからだ
第一ホトケという自体、ホトキとかであり本来の仏とは違うからである
先祖を祀るものと通じているからである
とにかく祭りは死者を祀ることからはじまったことは確かである
盆踊りもそうなのである
それは狭いコミニュティで村で始まったものである
日本人の精神形成は村なのである、だから明治時代にヨ-ロッパの文化が入ってきたとき
世間を社会と訳したがソサィティは広いものであり日本の精神形成の原型となった村とは違っているのである、だから現実に日本社会にないものを訳しようがなかったのである
市民などというのもそもそも村人がいても市民など日本にはいないのだから訳しようがないのである
現代の問題はそうして長い歴史で形成された精神の形成が文化が根こそぎ破壊されたことにある、墓の問題でもそうである、アイディンティティ化する拠り所となる場の喪失でありそれとともにみんな故郷喪失者になってしまった
グローバル化広域社会になるとそれは物質的には有益でも精神とか文化面になるとかえって破壊することになった
また工業社会とかもそうであり情報社会でもマスコミとかもテレビが茶の間に置かれるとき何か家族の会話がなくなり絶えずその目は外に向くようになった
つまり外国に向くようになって身近な所がかえって注目されない、知らないなのである
そうして長い歴史の中で培われたコミニュティが破壊されるとどうなるのか?
それが様々な問題を引き起こした、物質的には豊かになったとしてもかえって人々のつながりは喪失したとなる
何か情もなくなった索漠とした世界になったのである
それで知っている人がいつもいう、道に誰か倒れていても助けないとか言う
それもそうだと思う、何かそうして非情化無関心化した社会である
それで親戚とも言えないが「おばちゃんは金があるんだから金でめんどうみてもらへ」と血相変えて去った
それ以来母親の実家には墓参りもする気がなくなった
ただこれが異常かというとそうでもない、みんなそうなったのである
「金でめんどうとみてもらへ」
これが現代社会の普通の人間である、金がないなら死ねということである
道に倒れていても誰も助けない、助けてもらいたかったら金で助けてもらへとなる
それて私が弱者化したとき要求するのは金だけであり実際に奪うものもいた
それだけもう金しかない、あらゆることでそうである
この辺で原発事故でなぜ簡単に町自体が崩壊してゴーストタウンになったのか?
これも放射能のせいとばかりも言えない、つまり補償金をもらったときいち早く土地を買って移り住んだ人が近くにいるからだ
その人はすぐに故郷に見切りをつけた、それで早く土地を買ったから賢いと言われた
なぜならその後土地が値上がりしたからである
つまり故郷でもそういうものでしかない、何かあったらもう金がもの言う
金をもらえばすぐに故郷とかでも捨てる、それが現代人なのである
だからといって江戸時代とか理想でも何でもない
ただ今の社会と比べるとこんな状態ではなかったろう
貧乏なりに何か助け合うということがあった、情がある社会だったと思う
戦前でもそうだったろう、それが戦後高度成長時代から日本はアメリカに習いすべて金になったのである
そうして長い間でつちかわれた日本人がもっていた美徳も失われた
それが墓の問題とか死者をどうするかということにも起きている
生者と死者もそうした濃密なコミニュティが失われたときその関係も断絶して失われたのである
そして親が田舎に残っていても娘息子が東京とか遠くに暮らしている人も多い
すると墓の後継ぎもいないとかの問題が起きている、墓も維持できないとなる
村のような社会だったら継続する社会だから代々家が受け継がれるからそういう問題は起きないのである
大原でも知っている人は親が一人で家と田畑を守っていたがその前に息子は市街に出て働いていて一緒に住んでいなかった、今は死んで空家になっている
そして墓だけが残されたのである、でも近いから墓参りには来るとなる
これが東京とかに住んだとしたら墓すら受け継がれないのである
人間は確かに経済とかせ利益は第一にされるのは仕方がない
ただ何か利益とか金を第一にするとき代々受け継がれた文化が破壊される
それが精神に影響する、それが深刻なのである
仏教というのは日本的文化に変容したものであり本来の仏教ではない
日本的アイディンティティを形成したものとしてあったのだ
そうはいっても時代は常に変わる、それに人々は対応できない
特に文化的なものは精神に影響する、だからこそグロ-バル化とか大きな問題をはらんでいたのである
死者をどう扱うのか?死者をどう祀るのか?死者とどうつながるのか?
それがむずかしいのは経済的問題ではなく精神的問題から文化的な問題だからむずかしいのである、それはもう昔のように回復できないのである
ただ形式的に受け継がれているだけであり実体は形骸化して中味はないとまでなる
それは日本の精神形成がアイディンティティが濃密な狭い村にあったことによる
それがグロ-バル化と広域化社会では活きてこないから形だけのものとなってしまったのである
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