「魚は人間の手では作れないー
原発で苦しむ漁民」の立場からの本を読んだ感想
川辺茂著
この著者は羽咋であり結局原発が近くに建った
ただ珠洲の方は反対して建てられなかった
北陸沿岸には原発が多い
ともかく反対した人がいたことが貴重だった
1993年7月30日 - (1号機)営業運転開始
この本の著者が優れているのはフクシマ原発事故が起きる前に能登に原発が建つとなり
それを漁業を生業としている立場で反対していたことである
海は誰のものか?
それは消費者のものだ
消費者を第一に考えるべきだ
それで新鮮な産直で売る運動をした
私自身も漁業者を原発事故以後批判してきた、それは船主などが特に漁業権を売り原発御殿が建ったとか回りからうらやましがられていた事実を知ったからである
何か今になると松川浦の人がプログで漁業が苦しいということをしきりに訴えて報告していた、今になるとみんなそのときは漁業は苦しいんだな、魚もいつもとれるとは限らないし売るにも大変だなとか同情していた
おそらく地元ですらそうなの田からそのプログを見た人は余計にそう思ったかもしれないこの著者は魚は鮮度が大事だから産直をするようになったと言っている
漁業者の特権は二三日すぎた魚は食べないとか言っていた
新鮮なものを食べるのが習慣となっている
農家でも自分の家でとれるものは新鮮なものを食べているのである
生ものは新鮮なものがいいのである、キュウリでもスーパーで売っているものは固いのである、それは日にちが過ぎると固くなるという、水分も蒸発してそうなるのかもしれないそれで近くの畑でとれたキュウリは柔らかいからうまかった
ただそのキュウリは一本一万もするものだったのである
なぜなら肥料とか種代とか道具でも援助していたからである
それだけ実際に農業して野菜をとることは今は金がかかるのである
普通ならその人は金に困窮しているのだからしない、ただ援助されたからしているとなる
このことは漁業にもあてはまる、金にならないと嘆いていたからである
ただ漁業については私は詳しくないし知らないから発言して何か間違ったことを言っているかもしれない、漁業者と直接接していないからである
ただこの辺では石鰈というのがとれてそれは大晦日に食べる贅沢なものだった
前は石鰈は普通は食べていない、その魚は新鮮なので身がしまってうまいのである
そしてその魚を烏アとかから売りにきて私の家では食べていたのである
それから今度は小高の女性が松川浦でとれた魚を行商して売っていた
車で回っていたのである、その時も高かったが買っていた
魚に関してはそれが一番の思い出だとなる
その石鰈をみしらず柿を送ってもらった代わりに会津の友人に送ったとき相手の人が喜んでいたこともわかる、会津ではまず新鮮な魚は食べられないからである
石鰈の方が相当に価値があったからだ
とにかくこの辺ではこんなに海が消費者のものだとか考えた人などいない
消費者など存在しか海は俺たちのものだとしかないのである
だからこそ原発事故が起きてから補償金をもらうために家の前の海に権利があるとして東電に主張したりしていた、それは小高では私道がありそれも権利があるとして補償金を主張していた
ありとあるゆることに補償金をもらうために権利を主張していたのである
まずこの辺ではこんなに海のことを考えて原発に反対した人はいない
それでそういうこを主張すれば孤立したとなる、それも福島の原発事故前だから感心したのである
年齢でも大正13年生まれであり1924年生まれであり95歳になっているのだ
漁業は生命に直結する産業であり、工業などより優先する
これからの漁業をは沿岸漁業が中心となる
海は生きものであり、環境さえ大切にすれば無限の生産力がある
海は人類への天与の資産であり、売ったりしてはならない
獲る魚は消費者のものであるとの認識にたたなねばならない
何かこれは私自身が主張してきたことでもあった、これは農業関係者にもあてはまる
そのことを書いてきた、ただ自分は自ら米をとるわけでもない野菜を作るわけでもない魚をとるわけでもないから主張としてリアリティがなくなることがある
ただこの著者を言っているように漁業権を東電に売らなければ原発は建てられなかった
このことは非常に重要であった、それとはまるで正反対に海は自分たちのものだから売ろうと何しようと勝手だとこの辺ではなっていた、それだけの権利が与えられていることはそれだけの責任もあったとなる
権利を主張するのはいい、でもそれとともに責任が課せられていたのである
原発を作るのはいい、でも事故があったら責任がとれるのか、国までつぶれてしまうともなっていたのである
そんな責任のことは思わずにただただ金を欲しいとなっていたのである
だから誰も回りの人などその漁業権を売ることに疑問すらなかったのである
それよりもしこの辺で漁業組合であれ漁業者にであれ漁業権を売るなとか言ったら大反発があり身の危険にもなっていたろう
だからマスコミであれ地元の人であれ漁業権がどうだのとか一言も言っていない
ただ漁業権で補償金をもらい船主が原発御殿を建てたことを周りの人はうらやましく見ていたのである、ただそのことは口には出さない、今になってそういうことを言うようになったのである
親戚の浪江の人でも原発の下請けになっていたから「原発は絶対安全だ」と言っていた
それで原発は少しでも危険だとか言っただけでも村八分になり住むことさえできなくなることもありえた、それほど原発が金になるから利権化していたからそうなったのである
人間社会利権化するともう善悪もなにもない、利権を手放さていからである
だからこの辺では原発が危険だということすら口にも出していない、疑問をさしはさんだ人もいないのである
そして小高に東北電力の原発の工事がすでに始まる寸前だったのである
その小高に東北電力の原発が建つことすら知らない人がいたのである
私の町からもう20キロ内に入るから事故が起きたら住めなくなっていたのである
それほど原発に無警戒だったのがこの辺だった、権力でマスコミとも一体になっているから危険だということを一言でも言えない状態だった
それで小高の大工さんが景気良くなるよと言っていたからである
そして何かこの辺の人は強欲だとも感じる、ここだけではないにしろもう金のことしかない、それは漁業とか農業が工業から比べるともう金にならないとして捨てられていたからである、跡継ぎもいないとかなっていたからである
だからこの著者のようにフクシマの原発事故前にこれだけ原発に自ら漁業する立場で海のことを大事に思っていた人はあまりにも希少だったとなる
それだけ原発は日本では安全だという安全神話にこりかたまっていた、権力でそうさせられていたしみんながそう思っていたから反対する人もいないし口にすら出さない状態だったし危険だと言えば村八分になり住めない状態になっていたことは確かである
だからこの著者のように原発に反対したはゼロだったとなる
むしろ積極的に原発を誘致して原発で金になるとして熱狂していたともなる
だからこの著者がここまで原発に自ら漁業者の立場で反対していたことに感心した
能登というと過疎地域になる、能登線とかも廃止になった
私もそこにも電車で行っていたからである、それだけやはり生活的には厳しい場所になっていたからそこで原発騒ぎが起きてくる
それは福島県の双葉大熊でも相馬市とか前の原町市とかから離れている場所だからそうなったのとにている
この著者はまた養殖漁業に造る漁業にも反対している、それも海を汚すとか自然なものでないから自然に反するものになると反対していた
これも自ら漁業しているからリアルに訴えるものがある
沿岸漁業がいいというときも資源保護のためにそう主張したのである
だからこの辺は何かあまりにも強欲になり原発事故前もそうであり事故後もただただ補償金が欲しいとしてもめて分断されたのである
矛盾しているのは船主などは事故後はさらに補償金が増加した
すべてではないにしろ船主は特権があるからそうなった、だから豪邸を建てたの知っているからである、例えば原発の汚染水で問題になったが漁業組合が交渉すればまた補償金を積み増しされるのである
汚染水を出すな
補償金をもっと出せ
これも矛盾している、もともとこの著者のように海を大事にして消費者を大事にしていうならいい、それも全くない、ただ金取りだけになったのがこの辺の漁業者だともなる
つまり海は俺たち漁業者のものでありそれを東電に売ろうが俺たちのものだから当然だとなる、補償金をもらうのも当然だとなる
そこからしておかしかったのだがではこの辺の人はそういうことにも気づかなかったのである、海に無関心になっていたし農業でもそうである
金にならないから跡継ぎもいないしやめるとなっていたしこれは全国でそうである
耕作放棄地が膨大なのである、農業でも金にならないとしてそうっなっていたのである
そういうことが原発事故にもつながっていた
なぜなら漁業でも農業でも消費者は無関心だったということがある
人間は自らに利害で関係しないと無関心なのである
それで私が無人駅でボランティアしても第一駅は地元の人でも無関心である
乗り方すらわからなくなった人がいる、それだけクルマ社会だからそうなったのである
それで何か注意を喚起しても全く無関心なのである
それで自分は邪魔者扱いされたとだけである
つまり利権になるとか金になるとかならないかぎり人間はたいがい無関心なのである
それでも鉄道が廃止されるとかなるとようやく騒ぐとかなる、その時鉄道のことを考えるようになるからだ、町がますます衰退するとかなるからである
とにかく原発に関心があるというとき金になるからだったのである
その危険性を問うよりまず金になることしか頭になかったのである
だからこんなふうに漁業を考え自ら仕事していた人がいたことは貴重だったとなる
この辺ではそんな人がゼロだったからである、一人くらいてもいいと思うが一人もいなかったともなる
マスコミでも漁業権を東電に売ることはおかしいとかも言わない
何か組合に反対されるから怖くて言えないとなる、そういうことが今の世の中には多い
だからテレビではタブー語が増えて何も言えなくなるのである
この著者はキリスト教徒でありその信仰の面からも発言している
私もそういう面からも発言してきたから共感する
とにかく原発事故以後に東京に原発を作るべきだとか本を出した人が見直された
それも今になると至極当然のことだったかその時はSF小説のように見ていたのである
マスコミでもまともにとりあげてはいないからである
ここでマスコミの責任もある、マスコミはとにかく何か重要な問題でもそれをつっこんで批判したりしない、いろいろな団体とか組合であれ苦情がくるから何も言えなくなるのである、そこで真実は明らかにされず今回のような大事故になったのである
だからマスコミは何のためにあるのか?それも問題になったのである
東電で13メートルの津波が来るとその部門の人が警告していた
でもこれも報道もはされない、したとしても隅の方にあり知っている人もいなかったのである
これを知っていればみんな津波に警戒していたはずだからである
東南海トラフではしょっちゅう警戒することをマスコミでも報道するから警戒しているからである、原発があるところはもっと警戒すべきだったからである
それは東電でも知っていたのである、ただ津波の対策はしなかった
金がかかるからしなかった、そして地元でも眼中に金しかなく危険情報など関係なかったのである、完全に権力によって作られた安全神話をそのままに信じていた
それも問題だったのである、まずこの著者のように考えていた人はいない
一人もいない、ただ金のことしか眼中になかったのがこの辺の人たちだったのである
だから今になって東電を批判したりしても政府を批判しても国民は原発乞食だとしか見ない、どれだけ金が欲しいんだとしか見ないのである
だから他の人と協力して原発反対するにしてもできない
他の人は金目当てではない、原発そのものに反対しても地元の人は金が欲しいから運動すると見られるからである、そうではないとしてもそう見られてしまうのである
結果的にはこの著者の住む近くに滋賀原発が建った、珠洲の方は反対して建てられなかった
でもこうして一人でも反対した人がいたことは貴重である
この人は漁業組合長でもあった、だから責任ある立場だったが原発は作られた
でも反対して作らせなかったのが新潟県の巻町と能登半島の珠洲があった
だからいくら権力があっても住民が反対すれば原発は作れないのである
この二つの例は貴重である、それだけ原発は住民でも反対することがむずかしいものだからである
この辺ではそういう人がいなかったからである