2019年06月28日

情報社会とは何なのか? (モノより情報自体に価値がある社会)


情報社会とは何なのか?

(モノより情報自体に価値がある社会)


情報社会というときこれも何なのかわからなかった、情報社会はインタ−ネットが社会で一般化したときからはじまっていた
そしてスマホになりそれは世界で一般化した、ベトナム人でもネパール人でもスマホをもっているからである、スマホを通じて世界が情報化したともなる
つまりインタ−ネットとスマホで世界の情報化のインフラができあがったとなる

でも情報化というときそれは社会にとって世界にとって何を意味しているのか?
それが良くわからないのである、これがわかるのは情報を発信しなかぎりわからない
受け身で情報を受け取るだけだとわからない
情報化社会とは情報を誰でも個人でも発信できることにあったからだ
それが一番の変化だった

なぜならインタ−ネットがない社会の世界の情報はすべてマスコミに握られていた
一個人などかかわることができない、マスコミで発言できなかったら情報を伝えようもないからだ
それでどれだけマスコミの力が大きく第3の権力になったのである
テレビに何を発言するかではない、テレビに出れば顔が売れる、それだけで議員でもなんでも力をもつことができた、何百万人の人にテレビに出れば知られるからである

でもテレビで発言できたものはテレビ局から選ばれたものでありテレビ局の指示通りに発言する人である、テレビ局の意に沿わない人はテレビには出れないのである
そして何も発言できないしテレビ局の言う通りになる
だから原発の危険性とか原発を反対する放送はほとんど見かけなかった
それは福島県のマスコミでもテレビでも雑誌でも新聞でもそうである
なぜならテレビ局は新聞社が経営しているから同じになるのである
それで原発事故が起きたとき朝日新聞社の幹部まで東電に中国に招待されていた
その歓待されていたとき事故が起きたことでも象徴している
電事連からは800億という宣伝費が東電に流れていた驚きである
電事連というときそこは労働組合も入っていたのだから野党も関係していたのである

ではなぜマスコミがこれほどまでに力をもっていたかというとテレビ放送できる権限は六局しかない、するとそこに情報のすべてが集中することになる
そしてその影響は何百万人が必ず見ているのだから大きいのである
世界でもイラク戦争の時がそうだった、海鳥がイラクによる戦争で油まみれになったという映像が世界に衝撃をもたらした、それはやらせだったのである
それだけ映像の力は大きかったのである

いづれにしろ情報社会とは何なのか?
情報がマスコミだけのものではない、庶民へ一般人のものになったのが情報化社会である情報は今までマスコミを通じてしか伝達されなかったからである
それで私が無人駅で案内してそのことで具体的に鉄道のことに興味をもってプログで放送した、無人駅から鉄道全般の問題に波及して社会を知ることになったのである
それはただ無人駅になったので昼間買い物帰りにちょっとよって様子を見ていたことか偶然にそうなったのである
誰もいないから偶然に案内してそうなったのである

第一そんなところに伝えるものがこれだけあったということは意外だったのである
ということは本当はどこでもささいな仕事の場でも伝えることがあると思った
それができるのがインタ−ネットだとなる
そういう個々の目立たない仕事の場では伝えることがないと思ったからである
放送という時、目立ったもの事件が主になるからだ
ありふれたことは放送されないから知ることができなかったのである

情報社会とは何か?それは農業だったら確かに作物に関心がありそのことに一番関心がある、しかし農業自体にどうしてその作物ができるのかということに興味をもち知りたいということもある
私自身がそうだった、田舎にいるからみんな農業を知るとは限らない
ただ田畑に囲まれているのだから何もしなくても都会とは違う
でも実際に農業にたずさわる人は田舎でも少ないのである
だから農業のことを実体験として知っている人は少ないのである

それで小さな畑で野菜を作る人と知り合い実体験としての農業の話を聞いて興味をもった冬にかえって野菜は育つというのも意外だがそういうことは知識で知っていた
冬(ふゆ)は増えるから来た言葉であり農業の実体験から生まれていたのである
その人はしきりに冬は作物が育ちやすいと言っていたからである、これも意外なことなのである
そういう情報をじかに聞くことでその人に作物は何ももらえなくても資金の援助をした
結局作物は何ももらっていない、ただ話を聞いただけだとなる
でもふりかえるとそこでの実体験の情報をじかに聞くといことで情報に価値を見出して金を払っていたとなる

こういうことができた金額は実際大きいものだった、その人はいつも金に困っている人だったからである      
このように今の社会は作物自体に価値があることは言うまでもない、でもそれにまつわる情報にも価値が出る社会である、それはある程度余裕ができたからとはなる
そうでなければそんな情報だけに金を払うなどありえないからである
つまり情報社会とはモノだけではない、そのモノにまつわるものに価値が生まれる社会である
実際その人は別に家に来ても何もしない、畑の話をするだけである
二三枚皿を洗ったが今はしない、家事は全部自分がしているからである
つまりその情報に金を払っている、他でもモノだけではない、情報に金を払うべき時代なのである
情報は無料だとはならないのである

例えば喫茶店でもレストランでも見晴らしのいい所にあると安らぎ覚える
それは食べるだけの価値ではないのである
ただたいがい街の中にあり見晴らしとか景色を楽しみコーヒーを飲んだり食事する所はまれなのである
そういう付加価値を今は求めている、外食産業が落ち目になっているのは必ず同じもので飽きるからである、でも景色とか飽きないのである
季節感があり飽きないのである、だから景観の価値は消失することがないのである
食事は必ず飽きる、だから価値が永続できないのである

それで相馬市の日立木の柏崎のカフェドマニは景色もいいし薔薇の庭があったからそこで価値を生み出している、海老のニコニコ堂も納屋を改造して作り隠れた所にあり庭もあるから価値を作り出している、庭を散策するということで価値を生み出している
つまり食事だけではもう価値を生みだせない時代になったのである
こういうふうに時代によって価値が変わってしまうのである
ただ食事だけを出してもうける時代は終わっているから外食産業は別な付加価値のあるものを提供しなければ衰退すると説く人がいたのもわかる

観光というとき情報社会と密接に関係している、もちろんその土地のうまいものを食べたいという欲求は変わらない、それと同時にその土地のことを歴史文化でも知りたいとういことがある、その歴史と文化を知って食事を味わうと楽しさが増すのである
それを外国旅行ではバックパッカーで金がないからできなかったのが残念だったとはなる日本ですら郷土料理自体食べられない、どこでも同じである
郷土量料理を食べるとしたら相当に高くつくからである
ただ料理も文化なのだからただ食べるだけが人間ではないからその料理の成り立つ由来を知ることでその土地の歴史や文化を知ることになる
それで面白かったのがリヨンのブションという料理の由来である

メニューは豚、牛、羊の頭や足、胃袋、心臓など、内臓系料理が多いのが特徴。 貧富の差が激しかった当時、メール・リヨネーズたちが安価な臓物を美味しく調理し、労働者に提供していた事からこのような料理が生まれました。

こういう由来を聞くとヨ−ロッパの階級社会を実感する、料理は韓国でも中国でも宮廷料理があり一般の庶民に普及した
日本で殿様料理がない、それは侍も庶民も同じようなものを食べていたともなる
ただ城下鰈というのがあり侍しか食べられないものがあったから日本でも侍料理があったとはなる
まず外国ではそうして何か歴史と文化を知るのは容易ではない、だから自分は旅ししてもほとんどそういうことは知ることはできなかったのである

経済学者は絵画の販売量を経済学の科学的な研究では考慮の外に置くことにしているのである、その絵画のもっている本来の(essential)その作品そのものの価値をなんらかの質として認識していない、経済学者は量を計算して質を知ることがてきない
富のなんたるかを知り得ないのである(ラスキン)

文化経済学とかでも言うようにまさに情報の価値とはこういうことでもある
ただ絵画とか音楽でも鑑賞すること自体がむずかしい、詩ももっとも鑑賞しにくいから
その価値が認められないのである、すると量として計れば価値がないものとなってしまうのである
ただ成熟する社会では経済だけの価値だけですべてを計ることができない
金だけですべてを計ることはできない、人々は文化的な価値を求めてゆくのである
それが情報化社会でもある


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カフェドマニ(相馬市日立木柏崎)

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