2019年06月20日

土地とつながりなくなったとき人の価値はどうなるのか? (介護とかでただ金だけでできるものなのか?)


土地とつながりなくなったとき人の価値はどうなるのか?

(介護とかでただ金だけでできるものなのか?)

nursework.jpg

   地域を守る看護(鹿島厚生病院)


manremove11.jpg

介護のために東京でも南相馬市でも施設があっても介護士不足とかで青森に送られた
それは一人だけではないのである
何かそうして故郷から離れて家族からも離れて介護される
それはどうしてかとなると地元で介護士などがいないからである
それは東京でも数が多くなるから東京でも地方の介護施設に送り問題となる
これから東京では介護しきれないから地方に送り介護してもらうとなる

でも介護される方でも介護する方でも介護となるとまた別問題である
人間を品物のように移せるものかという問題である
それは極めて現代的な問題であることに気づいた
移動が容易だとしてもそんな簡単に人間か長く住んだ所になじんだ所から移れるものかということである
それは老人になると愛着ある場所とか家族がありそこで最後を生きて死にたいということがあるだろう
そのことが原発避難者に起きた、老人が故郷に帰りたいというのはまさそうだった
それは人間としての生物の本能みたいなものだったからそうなった

そして日本人はもともと村とか狭い範囲で生きてきた長い歴史がある
それが現代になり移動が容易になり激しくなった
そういう移動する社会では価値観も相当に変わる
人間の価値観はその場所に拘束されない、金があればどこにでも住んでいいとなる
だからこそ青森で仕事がないから介護を仕事として引き受けることになる
それは距離というものも関係なくなり金だけでめんどうみてくれとなる

でも介護となるとまたこれは他のものとはただ物をやりとりするのとは物を運ぶのとは違うのである、モノだけだったら地球の裏側から運んできても問題はない
でも人間が移動してきたら必ず様々な問題が生まれる
それが外国人労働者が日本に入ってくることでそうなった
相手は人間でありモノではないからだ
それは日本国内でも言えたことなのである

現代の価値観はその場所とか関係なくなる、移動が容易であり金があればどんなサービスでも受け入れられるともなる
それで東京の人は金をもっているから地方都市に福祉サービスがいい都市に移住する
そこなら手厚い介護が受けられるとか思うからである
でも介護となるとまたモノのやりとりとは違ったものになる
金がやるから地方で手厚く介護してくれとなりでは地元の人がそうして全く知らない人に手厚い介護ができるものだろうか?

もともと東京とかに生活して東京に貢献していたとするならそこで介護されるのがいいとなる、要するに人間の一生はやはりどこかに愛着が生まれてそこで死にたいとなるだろうまた人でもそうだろう、いろいろな人があっても一般的に長く生活を共にした人のもとで死にたいともなる、全然知らない人たちの中で介護されるとうのも何か不自然なのである別にそこに親切な人たちがいれば地元だからとしていい人ばかりではないことは知っている、だからそんなことに今はこだわる必要がないということもある
地元だから故郷だからいいとはならないからである

ただ一般的問題として現代とは広域社会でありグロ−バル化社会である
そういうことで問題が起きる、東京に原発を作れというときなぜ福島とか地方に東電は原発を作ったのか?それも広域化社会になっている問題である
福島の双葉とか大熊は出稼ぎ者が多く地元で仕事があればいいとして原発を誘致したからである、それで確かに地元に金になる働き場が生まれて潤ったとなる
それと何か介護でもにているのだ
青森は仕事がない、それで金になるために遠くてもそうして介護する人を引き受けるとなるからだ

現代はその土地土地で生きる価値を作らない社会である
その土地に長く生きてきたからと言ってその人に価値があるともならない
ただ金をどれだけ多く稼いだかで価値が決まるとなる
だから東京辺りで株でもうけたとかして億の金があるから地方で手厚い介護しろとかなるなにかすべてが金で価値が計られることがおかしいのである
すべての価値が金で決められるのか?
その人の価値がすべて金で決められるのか?

村のような所で生きてきたら何かその村の中でどういう役割を果たした人かなど狭い範囲だとみる、それでその人の価値をみる、それは金だけではない価値観が働く
でも金だけをもってきて手厚い介護しろというとき何かそれをすんなり受け入れられるだろか?
それはグロ−バル化社会でも起きていて世界がただ金だけすべての価値を計る
そういうことはできない、国々にはそれぞれの文化があり文化をすべて金で価値を計ることはできない、金で買うこともできない、その文化とはその国の風土があり長いその土地の歴史があって形成されてきたからである
だから原発避難地区ではそうした歴史を奪われたとなりアイディンティティを失った
それは金で補償できないものだったのである
そういうことは意外と意識しない、精神的なものだからであり金で買ったり売ったりするものではないからである

とにかく現代は広域社会でとかグロ−バル化で矛盾が起きる
それは人間の価値はすべて金で計れないからである
金にならないものはすべて価値ないものとはできないのである
都会だと自然がない、景観がない、索漠としている
でも景観自体に価値あるともみない、森より木材が金になるとして伐採してはげ山にするそれは地方でもグロ−バル化するとき熱帯の森でも失われたからである
そこに生きるものにとっては金が入っても森を失われることが精神的な喪失感を生む
それは原発事故でも起きたのである、自然が放射性物質に汚染されたからである

広域化社会というというとき距離は関係ないとかどこに生活しようが金さえあればすべてまかなえる、介護を受けたければ福祉サービスがいい都市でも地域でも移ればいいとなるしかしそれを受け入れる方ではどうなるのか?
別に金が入ればいいとなるのか?なぜこの人に尽くさねばならないのかという問題も起きる
もし地元だったら地元に生きて働いて貢献した人だとなればそこに介護する人の動機が生まれる、家族が介護すれば一番いいようにである
グロ−バル社会を批判して来たけど何か最後に老人になってそういう社会がいいものだったのか介護とかで問われているともなる
ただ地元にしても何かトラック運転手が多い、それは現代は運ぶ仕事が多いということなのである、それは広域社会だからそうなっているのである
だからみんな地元だけで仕事している人は少ないのである

現代は何かそうして広域社会化でもグロ−バル化社会でも矛盾がでている
それはどうして人間の価値が生まれているのか?
その土地に尽くして生きたならその土地の人に世話になり死ぬというのが自然になる
もちろん尽くすとか貢献するとかではなくても人間の心情としてその土地と一体化するということがある
金さえあればどこに住むのも勝手だとか金があればすべて解決するとかには人間にはならないのである
人間はモノではないからAからBへと簡単に移れない、住めないなのである
Aを中心に価値を作って来た人がBへ移って価値観を作ってゆくことはむずかしい
そうしして移動すれば人も環境も自然も生活も変わるからである 

ただ都会になると東京とかるなとそうした土地とは関係ない、みんなよそ者の集まりだからである、それが田舎に住む者との大きな違いである
都会では点々と都会内でも移住するからである、ただ家を建てるとやはり移住しにくくなる、そこに定着するようになるからである
でも都会の人と田舎の人の感覚はその辺が相当に違っている
何かおかしいなというとき現代はあまりにも金で割り切る、すべてを金で価値を計っているからそうなる、そこに一番の問題がある
人間は金で計れない価値が相当ありそれを無視して生きることはできないのである
もし無視するともう人間として生きていけないとまでなる
それがグロ−バル化社会の深刻な問題なのだけど金一辺倒の価値観しかなくなっている
そこに大きな歪(ひずみ)が生まれているのである

この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。
この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/186168026
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。
※言及リンクのないトラックバックは受信されません。

この記事へのトラックバック