2019年04月30日

江戸時代の飢饉の歴史 (歴史の闇に消えた膨大な人たちを知るべき)


江戸時代の飢饉の歴史

(歴史の闇に消えた膨大な人たちを知るべき)



1755年〜1757年(宝暦5年〜7年) 宝暦の大飢饉

東北地方は7万4千俵の減収であったが、蓄えがなかったために大飢饉となる。
餓死者6万余人、死馬2万頭にのぼる。
岩手、志和郡が1万7864 人(人口の30.5 %)、三戸郡が1万2681 人(人口の55
%)、鹿角郡が3241 人(人口の20.8 %)、二戸郡が5446 人(人口の19 %)



秋田県由利本荘市(宝暦の飢饉)

矢島御領分にては御毛引26,000俵なり。新荘村にては251俵、坂ノ下村にては540俵なり。乞食村里に満ち、餓死人路の辺にたおるもの実に多し。御上にては舞杉に大いなる穴を堀り、餓死人を埋む。或は兄弟妻子別れ去り、家をあけて他所へ出る者多し。百宅、直根に別して多し。家を離れて他所へ出る者は多く餓死せりという。この冬大雪にてとろろ、わらびの根など堀ることならず、餓死人いよいよ多し。御上にては、毎日かゆをにて飢人を救う。山寺に非人小屋をかける。ありがたきことなり。家財諸道具売りに出ることおびただし、盗人大いに起こる。」とある。又別の記録には「直根、笹子、中奥の沢方面の餓死実に多く、餓死人御領分にて三千余人。」と記されてある。その惨状は推して知ることができよう。


天明のの飢饉 

秋田方面への流民が発生し出した。「藤田権左衛門家記」(資料近世2No.五五)によると、碇ヶ関関所から三万人を越える飢民が通過し、逃散を差し止める藩の指示も無力で、関所も解放され領外への移動は勝手次第という状態だった。また、大間越の関所からも数千人が逃亡していった。老人や少年で歩行ができない者は打ち捨て、妻子・兄弟も散り散りになるという混乱がみられた。しかし、北奥一帯が飢饉状態にある以上、たとえ他領に逃散しても状況はあまり変わらなかった。同書は「関所の外に出た段階で皆餓死してしまったという」と結んでいる。

この間、他領へ逃散していた飢民も多く連れ戻され、非人小屋に収容された。江戸詰の藩士添嶋源八郎は国元へ帰る道すがら、他領へ逃散していた者四六〇人を連れ戻したので、非人たちはことのほか源八郎を恨んだという。このころになると収容者も再び増加し、千五、六百人になった。藩は再び管理が困難になり、十月九日にも希望者に手当を与え、九四二人を帰村させたという。

弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍 


天明の飢饉は有名だけど宝暦に東北地方にヤマセの影響であった
宝暦というとき日立木の薬師堂に宝暦の碑がありそこに南無阿弥陀仏の碑がある
それは飢饉で死んだ人の供養だった、宝暦というとき相馬市の塩嘗地蔵の所にも宝暦の碑がある、相馬市の城下町であれは相当に古いものとなる、街中には古いものがかえってないからである、松川浦に近い所に新田には元禄の碑があった

江戸時代の最大の災厄は餓死だった、その数は膨大なものになる、それがまさに江戸時代の暗黒面だったのである、歴史という時、そうして無念に死んだ人が膨大なのである
最近でも3百万人が戦争で死んだという時そうだった
そういう暗黒面の歴史があるしそれを知らねばならないのである

なぜか?人間はとにかく過去を忘れやすい、現代のように贅沢な暮らしをしているともう餓死ということ自体イメージすらできないだろう
もちろん現代は日本でも貧困化が深刻な問題であり数人は餓死している
でも江戸時代の飢饉は何十万の単位で餓死しているのである
だから例えば日立木の薬師堂で宝暦の碑を見つけたとして念仏で供養されているとして
その背後にこうした事実があることが忘れている
歴史の闇に消えてしまった人が膨大なのである
だから相馬藩で700人溺死というのはこうした餓死者とかと比べると死者の数が少ないから余計に忘れられていたのである、政治でもそれに対して何もしていないのである

とにかく宝暦でも天明でも天保にも飢饉があった、飢饉は常にありそれで年号となると飢饉をイメージするのである、天明はまさに飢饉の年でありそれはあまりにも悲惨だったから語り継がれているのである、でも宝暦とかなると何か明確ではない、でも被害は大きかった
歴史とは何なのか?それは膨大な人が歴史の闇に消えた消されたとういことである、それが津波の被害にあって相馬藩内で700に溺死という記録があり見直されたのである、ただそれも二行だけであり津波が来て初めてその二行を発見したのである

そういうふうに歴史には膨大な人が闇に消されているのである、だからそういうふうに歴史の闇に消えた人たちをその事実を掘り起こして検討することが大事になる
それが供養だとなる、それは先の戦争で死んだ人たちだけのことではない
飢饉で死んだ人達でもそうである、逃散というのもありそれは江戸時代なら藩から出れないがどうにもならず出て行った、でも他藩でもそういう人たちを受け入れることはできないから戻されたのである、そういう中で死んだ人たちがいた
それは決死の移民でヨ−ロッパとかで死んでいるのと似ている
それに比べると原発避難民も大量に逃散したがその先では新しい家を建てたりして地元の人からうらやましがられて反感をかったのである
それだけの時代の差があったということである 

ともかく一つの古い碑でもそこに膨大な人が餓死してそれを供養している
そういうことをイメージしないとただここに一つ古い碑があるだけだとなってしまう
そこに無数の歴史の闇に埋もれた無念の霊が眠っているということ知らねばならない
歴史には個々人でもそうだが無念の死が無数にある、それは今でも家族とか身近な世界でもそうである、戦前だと若くして啄木のように肺病で死んだ人も無数にいる
そうした暗黒が歴史でもある、一つの古い碑があったとしてその背景にはその当時の時代背景がありそれをイメージできるかなのである

posted by 老鶯 at 17:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)
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