2019年04月12日

高倉村の短歌十首と詩(生業がなくなると村も死ぬ)


高倉村の短歌十首と詩(生業がなくなると村も死ぬ) 

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高倉は奥にしあれや生業のここにもありて春の日暮れぬ

高倉に山雀見つく誰か棲む広き庭かな春の日暮れぬ

高倉を装う桜あわれかな墓地のみここに訪う人もまれ

高倉や巌にスミレ清らかに流れの上や我がたずねけり

高倉の春の日あわれ古き家田の手入れやしばし語りぬ

高倉の花に染まるも墓地ありて訪ねる人もまれに淋しも        

高倉に山雀一羽見つけしも辺り人無く春の日暮れぬ

墓一つ倒れてあわれ夏草にここにも生きにし人のありしも

高倉にしみじみ鳴きぬ蝉の声街を離れてここにひびきぬ

山の村貧しく淋しも誰か見む神見守りて愛しむべしも

高倉の街に遠きを生業のここにありしも冬の日あわれ  




高倉村の老夫婦

国見山の麓高倉村押釜村
押釜村に紙漉き一六戸
個数数十軒相共に暮らしぬ
水清らかにその生業厳しも
高倉村社も古りぬ碑も古りぬ
草刈りする老人あり
今草茫々と草に埋もれぬ
ここに共に暮らす日の長しも
街より離れて遠く
秋の蝉鳴く声ひびきあわれも
この山里に長くも暮らし
やがてここに死すや
岩のごとくここにとどまれや
その裔も見守りてあれや
しかし悲しも里は荒れにけるかな
虫かすかに鳴きて老夫婦
ここにありしもあわれかな




高倉村は江戸時代からありその前からもあった、それなりに古いとなる、でもでもあんな奥にどうして暮らしていたのか?
今になるとそう思うがどうも江戸時代とかなると違っていた、木材の供給地であり炭焼きをしていたし紙漉きも盛んだった
生業がその土地にあったからだ、そこが今と大きな相違なのである 
飯館村でも1950年代に11000人いた、その後6000人になった、約半分になったのである
戦後は引揚者が入ってきて増えたのである、だから良く貧乏な時代にそれだけの人を養っていたと今になると不思議になるのだ
戦後10年くらいは炭焼きもしていた山村に仕事があったともなる、でもそれも10年くらいで終わったのである

いづれにしろ押釜村とか高倉村とか大原村とか橲原村は奥座敷になる、特に高倉村と橲原村は秘境のようにもなる
でもどうも江戸時代でも戦前でもそれだけ人口がいたということはそうではなかった
人が結構いてにぎわっていたともなる、それが勘違いしているのである
高倉村は行き止まりの村であり何か一段と淋しい所だと思った、でも不思議なのは高倉村から石神村が分村した原町市史に書いてあった、これもだから理解できないのである、石神村は今は広いからである

とにかく何か山村とかは別に原発事故前からグローバル化などで燃料も炭から石油となり木材は外材になり生業が奪われていたのである
それで原発事故でそうして生業が奪われていた所にさらなる打撃となったのである
そして生業がなくなると実は村も死ぬのである
それは具体的に山の手入れをしないとかいろいろ人の手が入らないと何か自然も荒れて災害すら起きてくる
だから生業を返せと裁判を起こしたがこれも前からすでに生業はいろんな面で奪われていたのである
漁業だってそうなっていたから漁業権を東電に売り渡したりした、それは実はグローバル化経済とか産業構造の変化で限界集落が全国に生まれたのである、だからマクロ的視野から見るとその影響が余りにも大きすぎたとなっていた 

いづれにしろ桜の咲いている所は工事している、バンガローがあるが人がいなかった、何か他から移った人が神社に異常に興味をもっていた、その人と駅で会ったがどこに住んでいるかわからなかった
ただあのような奥地に桜があんなに咲いていたが何か村自体は淋しいとなる、田畑は荒地化して放置されて外に出た家もある
そうなるともう村は死ぬ、多少でも田畑があり営みがあり生業があるとき村は生きていたのである
もし生業がなくなればただ家があるというだけになるからだ

次は高倉村の歴史を探求して書いてみよう

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