万葉集の松の歌
(古代人の直き心の歌が万葉集であり神道に通じている)
0066: 大伴の高師の浜の松が根を枕き寝れど家し偲はゆ
0141: 磐白の浜松が枝を引き結びま幸くあらばまた帰り見む
0145: 鳥翔成あり通ひつつ見らめども人こそ知らね松は知るらむ
0309: 石室戸に立てる松の木汝を見れば昔の人を相見るごとし
家の跡の松一本
家の跡誰か棲みたる
一本の松の立ちにき
その松の人にし見ゆる
今し春なり
残れる庭に水仙や
小さき花も咲く
ありし日のごと
その家の跡に土筆も生えぬ
松はここを離れがたくも
今も立ちつつここに根付く
この松と庭の消える時
また新たな家が建つとき
ここに誰か住むも知らず
その跡すら消えぬ
となれば偲ぶこともならじ
その松はなおここに住みし
人のごとくに一本立っている
まるでこの屋の主のように
ここを離れがたく立っている
人の世はうつろい無常なり
長くもあらむとしてもならず
遂には消えて跡なし
ただこの松一本の長くもあれ
ここに住みにし主の如くに・・・・
松は本当に人間に見える、それは万葉時代からそうだった、松は人間に最も親しい木だったのである、他の木は高いし太いし人間に見るのは無理なところがある
松は高さでも人間のサイズなのである
そして松は待つからきているのか?
松は人間だからこそ人間を待っているという感じになる
人こそ知らね松は知るらむ
というときも松は人間のように見えるから誰も知らなくても松は知っているとみる
そこに松の不思議がある
松が根に枕のように寝るというときもこれ実際の経験の歌である
松が人間のようになってそれを枕にして寝ているという感じになる
松に結ぶのもいかにも松自体が人間だからである
松は何か誠実に見える、まさにそういう人間に見える
松は嘘偽りのないもの、誠実な人間に見える、だからこそ枝を結び願いをこめる結ぶのであるそういう古代人の心境は今でもわかる
こういう古代人の心境は深く松と自然と一体化していたのである
何か現代人はこうした素朴さを失った
自然と人間の深い交流シンパシーを喪失したのである
自然は素直であり直き心を反映したものとしてあった、その直き心を自然の基でも石でも山でも見ていたのである
現代人は機械に囲まれ、あまりにも複雑な法律で悪から逃れるようとする
守ろうとする、でもその法律でも機械でも悪いことに常に利用されるのである
松は誠実さを現している、万葉人もそのことを感じていたのである
万葉集の心とは何か?それは神道の直き心に通じている
日本人が失ったものまたそれは古代の万葉集に残されている、それは素朴な時代を生きた人間の真心の歌だった、国家神道とかではない、それは農民とかの生活から生まれた大地に根付いた土着的なものである
そういう時代から今を見るとあまりにも人間の心は穢れたものとなっていた
確かに生活は食べ物でもなんでも恵まれている
でもその心はスモッグのように汚染されて醜悪なものになっている
確かに科学技術は最高点まで達した感じがある
でもその科学技術だって原発事故のように何かそこには人間の欲が肥大化したものでありそこに人間が群がったのである
あらゆる人が科学者であれ学者であれ官僚であれマスコミであれ地元民であれ原発は巨大な欲望の象徴でもあったのだ
だから葛尾村でも原発で働いていて景気が良かったと言っている
飯館村ですら原発で働いていた、それだけ原発は金の成る木だったのである
ただ津波と事故で一挙にそれが崩壊したのである
それも何か自然からの罰なのか神の罰なのか、あまりにもむごいのでそう感じてしまうこともある
それも人間の心が物質的なものの追求ばかりで汚れてしまったからかもしれない
直き心などより科学技術による便利な欲望の限りなき追求になっていたのである
もうそれは地元だって足りることを知らないものとなっていた
だから原発事故というのは神からの罰だったのか?何かそういうことすら感じてしまうのである