2019年03月23日

慶長奥州地震と相馬中村藩の復興(岡田清一)を読む (石高の極端な変化が数字で示された有力な証拠となる?)


慶長奥州地震と相馬中村藩の復興(岡田清一)を読む   
(石高の極端な変化が数字で示された有力な証拠となる?)


この題名でインタ−ネットでPDFて論文が出ます

tunamikokudaka1.jpg

keichoutunamiii2.jpg

慶長津波の有力な証拠となるとこれだったのか?
宇多郷がなぜこれほど甚大な被害だたのか?
これは石高だから米の被害である
すると宇多郷では今の相馬市ではそれだけの収穫量があったのか?

なぜなら海側だと田は少なくなる、ただ海側に向かって開拓されていたのか?
新田は松川浦に近く開拓された場であり元禄の碑があった
でも元禄時代に広く日本では開拓開墾されて田が増えて米の収穫量も増えた
元禄時代は芭蕉が活躍した時代であった
華やかな時代になった

でもその前となると元和が1620年で終わり元禄時代は1688年にはじまる
その間に60年以上の年月の差がある
ただ慶長時代からすでに開拓開墾は行われていた
でも不思議なのは津波の被害となるのは海側である
つまり海側はそれほど収穫高が高いとも思えないのである
それでも開拓されれば田の面積は広くなるのである

例えば八沢浦とか明治になって開拓されたし小高の井田川浦は大正になって開拓された
そういうふうに海側が開拓されるのには時間がかかっていたのである
北郷が南相馬市の鹿島区が被害が少なかったのか?
それは海側にまだ田が広がらない、開拓されていなかったからなのかとなる
現実に右田となるとそこは人は住んでいなかった、港でもなかった
ただ海老村には弥生時代から人が人が住んでいた
そこは高台になっていたからである
でも今回の津波では壊滅的被害を受けた
そこには港の機能があり漁業もしていたことはわかっている

わからないのは宇多郷の今の相馬市とか松川浦の被害がなぜこれだけ多いのか?
そんなに田があり米が収穫されていたのか?
ただ宇多郷は磯部なども入っていてすでに佐藤氏が支配していて港機能もあった
そして慶長津波の前に波に浸食されたとかで鬼越館に移った
その手前の日下石まで津波は来たのである
そして本当に磯部は村ごと今回の津浪で消滅したのである
つまり田の面積が広いということは相馬氏が支配する前からすでに開拓されて広かったともなる
それと宇多郷は今の相馬市地域は伊達藩の領域となっていた
だから伊達藩のときから開拓されて田の面積が広がっていたともみる
伊達藩の方が相馬藩より古く地力があり技術的にも進んでいたからである
そうでなければなぜ宇多郷だけこんなに石高が減っているのか解せないのである

そして中の郷も南相馬市の原町区の被害も大きい、でもこれもそんなに海側に田が作られていたのか?萱浜(かいはま)などは低湿地帯であり越中などの移民が入って開拓したとあるからその時に田にはなっていないはずである
ただ北泉とか高いと見ていても被害が大きかったからその影響なのか?
それも良くわからない

小高についてはこれも鎌倉時代辺りに今の城のある鉄道の通っている前まで海であり港の機能があったことは知られているし地名でも残っている
それもまた田ではないのだからそれほどの被害があったとは思えない
ただこの数字はやはり被害としては妥当なのかともなる

つまり慶長津波があった時代の田がどの辺まであったのかという研究が必要になる
この数字はやはり有力な証拠になるからだ
この数字からはすでに広く海側に開拓がすすんでいたのだということになる
でも資料があまりにも少ないということで実証できないということは確かである
それで現実に慶長津波が本当にあったのかどうか確証がもてないのである

そしてこの表で最も注意すべきは

宇多郷で慶長津波があったとしてそのあとの元和で6パーセントの石高になったのに
その後の寛永(1639)で二倍にもなっている

北郷では南相馬市の鹿島区では5倍ちかくになっている  

他は津波前の現状回復になっている

つまり北郷では南相馬市鹿島区では慶長津波があったとしてそれほど被害がなかった、そしてその後に飛躍的海側の開拓が進んで石高が5倍近くになっているのだ、それだけ右田などとか大内辺りとか海側に開拓がすすんだとなる
ただ海側だけではない、山側でも開墾されて田が増えたのである
ただ津波があったとして影響を考えると海側への開拓が進んだ結果として石高が増大したとなる

それで小高から相馬氏の城を今の相馬氏の中村へ移転したというのも何か津波と関係していて宇多郷の石高が倍以上に増大したのかもしれない、それで復興のために移転した説が生まれたのかもしれない
城が移転したということは行政の中心が移転したとなるから力が入るからである
ともかくの資料はかなり津波の証拠の資料となるかもしれない
ただその他に資料となるのものがあまりもに少ないから不確定要素が大きすぎるから未だに証明できないのである

ただ今回の津波は相馬藩だけではない伊達藩のことについてもかなり知る必要がある
相馬藩の歴史は伊達と敵対したとしても一体化していることもあるからだ
それは山元町に今回自転車で行って回りわかったのである
古代でも浜通りと相馬藩内の延長としての歴史が記されていたからである

またわからないのはボーリング調査でも不思議に800年代の貞観津波の砂は出てくる
松川浦の奥でボーリング調査したのは今回の津波の7年前でありそこでも出てきた砂は
貞観津波のものだったのである、それから山元町のボーリング調査では弥生時代の津波の砂がでてきた
不思議に慶長津波の砂はボーリング調査ではでてこない
これはなぜだろうともなる、まだ調べ方が足りないからだとなるのか謎である

いづれにしろ私自身も今回の津波を追求しても資料がないということで調べようもないのである
ただここでの石高のこれだけの変化があるということはやはり大きな証拠になる
これはやはり津波の影響だったしか思えないのである

ただ相馬藩政記には生波で700人溺死と二行しか記されていない
その他一切記されていなのはなぜか?
そして戦国時代でありその戦いのことは事細かに記されていた跡継ぎ問題とかも記されている、そして江戸幕府が開設されたとして時代は戦国時代であり政治は安定していなかったのである
相馬藩でも相馬氏が支配したとしても安定していない、いつ反撃があるからわからない時代だったのである、そういう政治状況も影響していて津波のことは詳しく記されなかったとなる
でも依然としてなぜこれだけの被害があったのに資料も残らない、語られないということは謎として残るのである

posted by 老鶯 at 17:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。
この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/185754693
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。
※言及リンクのないトラックバックは受信されません。

この記事へのトラックバック