2019年03月19日

綿津見神社と山津見神社 (松川浦からその跡をたどる)


綿津見神社と山津見神社

(松川浦からその跡をたどる)

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山津見神社と和田=綿=綿津見神社


大山祇神社の住所は愛媛県今治市大三島宮浦で主祭神は「和多志の大神」の異名をとる
大山祇(おおやまづみ)神である
この一帯の海賊衆の親分のような神様である                  
一六代仁徳天皇の時代、百済の国から渡ってきた、津の国の御島(大阪府高槻市三島江の式内社三島鴨神社)にはじめいたのだという

古事記にニニギは野間岬で美女に出会う、名を問いば木花之佐久夜毘目売(このはなさくやびめ)で、ニニギは結婚しようともちかけた
すると木花之佐久夜毘目売「父、大山津見神に相談します」
という、大山津見神は姉の岩長比売をそえて差し出したのだった

大阪の三島神社でもそうなのだが「大山祇神」には物部韓国連(ものべからくにのむらじ)が百済から大山祇神を奉斎してきたと伝えられる
東海地方では目を転じれば静岡県三島市には三嶋大社があり大山祇神社祭られている
この一帯の国造は昔物部系の人物が勤めていた
(消えた海洋王国ー吉備物部一族の正体ー関祐二)

飯館村の佐須にある神は狼ともされているが実はもっと古い古代にさかのぼるのである
その由来は古事記にも記されている神であり古いのである
ではなぜこういう神が遠くみちのくにもたらされたのか?
つまりその神を奉じていた祭っていた人たちが移動してきたから神様も一緒に移動してきたのである

なぜ松川浦に和田があるのか?これは綿津見の綿が和田になったのである
その源は大山祇神社の住所は愛媛県今治市大三島宮浦で主祭神は「和多志の大神」なのである
和多志とは渡しであり渡ることかきている、海を渡る人たちだからそうなったのである
渡部の姓でもそうである、渡るからきている、海であれ陸であり運送を生業とする人たちだったのである
三島神社というとき原町にもある、これは百済系なのかとなる
その基はここに記されたものにさかのぼるのである

この大山祇神社神社と綿津見神社は対になっている、瀬戸内海の三島では対になって祭られている、兄弟の神だともなる
大山祇神社というとき山がつくから山をイメージするがこれは海の民の神になっている
一方綿津見神社は海をイメージする、でも二つは海彦と山彦のように一体なのである
だから松川浦にこの二つの神が並んでいることがそれを象徴している
二つは対になりか一体だからこうして並んで痕跡を残している
一方は山津見神社であり一方は綿津見神社でありその綿が和田になったのである

そして神社は綿津見神社神社でも山津見神社でも海から移動してきた、海から入ってきたのである、それで玉野から霊山に行く途中にも山津見の社が岩場をよじのぼったところに祭られていた、それは小さな社であり隠されていてわからない所にあった
それはやはり松川浦から人が移動してきてそこに祭った
そして飯館村の佐須に祭られた、飯館村には綿津見神社もあるからだ 
錯覚しやすいのは佐須に山津見神社がありそこから海の方へ移動したように見ることである
南北朝時代だと霊山の城が炎上して海の方へ落ち延びてきたからその人たちが祭っていた神社も移動した
山王神社とか日吉神社である、でもそれは時代が違うのである

まず日本の国造りは海側からはじまっていたのである
例えば今回の津波で日下石(にっけし)という所まで海になった
ニッケシとはニは西でありそれは海から見たとき西の方向にあったからである
海から見た方向感覚で西となったのである、そこはそもそも山側ではない、海に近い場所なのに西となるのは不自然だからである、海の民は漁師でも船から山を目印とする、そこに山の信仰が起きる
山は海から見たものとして意味があり名付けられるとなる
そこに海の民が最初に日本を支配したともなる、それがヤマトタケルの伝説となったのである
そういう下地を安曇氏とか宗像氏(むなかた)とがが実際に船を操作して移動したからそれがヤマトタケルに受け継がれて神話化したのである 
それで瀬戸内海の要所を抑えて吉備がまたはそれと同系の物部氏が大きな勢力をもっていたというのは理解できるのである

日本武尊(やまとたけるのみこと)、すなわち上総(かみつふさ)よりうつりて、
陸奥(みちのく)の国に入りたまふ。

時に大きなる鏡を王船(みふね)に掛けて、海路(うみつぢ)より……
蝦夷(えみし=大和政権に従わない人々)の境に到る。

蝦夷(えみし)の賊首(ひとごのかみ)、嶋津神(しまつかみ)、
国津神(くにつかみ)、竹水門(たかのみなと)に屯(たむろ)して、防がむとす。

しかるに、遥(はる)かに王船(みふね)を視(み)て、
予(あらかじ)め其(そ)の威勢(いきおい)を怖(お)じて、
心の裏(うち)に、え勝ちまつるまじきことを知りて、

悉(ふつく)に弓矢を捨てて、望み拝みて………
蝦夷(えみし)ども、悉(ふつく)に慄(かしこま)りて、

すなわち裳(きもの)をかかげ、浪を分けて、
自(みずか)ら王船(みふね)を扶(たす)けて岸に着く。

よりて面縛(ゆわ)いて服罪(したが)う。

その罪を免(ゆる)したまう。

よりて、その首師(ひとごのかみ)を俘(とりこ)にして、
従身(みともにつか)えまつらしむ。

蝦夷すでに平(む)けて日高見国より還(かえ)る。   

竹水門(たかのみなと)とは南相馬市の磐城大田地区の多珂神社神社のことなのである
そこから海が見えるしその当時海は深く山側に入っていたからである
相当奥深くまで海だった、それが津波で証明されたからだ
鹿島区の塩崎(しおのさき)の船着まで津波が来たのである、そこは低地だっからそんな奥まで来ていたのである
だから多珂神社のあるところは港のような場所だったともなる

そのヤマトタケルの伝説の基は綿津見神社と山津見神社があるように安曇氏とかは綿津見神社であり山津見神社もついにしてある
宗像氏とか海の民と深く関係していたのである、そういう人たちがここに最初に入ってきたのである
物部氏が吉備氏と一体だという時もそうである
瀬戸内海で交通の要所あり力をもったからである
南相馬市でも物部氏に由来しているものが多いのである、古代の郷では小高に吉名郷があるが物部吉名という人物名があるから具体的にその氏族名と名前があるということは物部氏がヤマトタケルの前にこの地を支配していたのである
それで原町の桜井古墳は物部氏系統のものである、なぜなら東海地方から出てくるものと同じものが古墳から出たとされるからだ
東海地方には物部氏が勢力を持ったところだからである

表からみても東海地方に静岡県に綿津見神社が50とかぬきんでて多いことでもわかる、そして相馬地域に20というのは本当に多い他は少ないからだ、この辺ではとにかく綿津見神社が目立つのである
ただでは安曇氏の痕跡が残っているかというとない、ただ神社だけがその跡を示して残っているとなる
伽耶(かや)とかもその痕跡が消されたように安曇氏の痕跡も大和王権成立して消されたとなる

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静岡に綿津見神社が50あり福島県に20あるがこのほとんどは相馬地域にある
ただこの数は正確なのかどうかわからない、綿津見神社神社はもっと多いように思うからだ



posted by 老鶯 at 13:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)
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