2019年03月18日

春時雨(人間の五感が機械化で失われる―旅もなくなる)

                     
春時雨(人間の五感が機械化で失われる―旅もなくなる)

柔らかに白髪をぬらす春時雨


春時雨というのがある、それは二三日前だった、これもまた帽子をかぶっていると感じないことがある、でも顔をぬらす春時雨だったから感じた
まず車だとこういう自然の変化を感じない、季節感もなくなる
第一風を感じない、車は閉鎖された空間だからである
風を肌で感じられない、今どういう風が吹いているのか感じないのだ
俳句とかだとどうしても季節を感じなかったら作れない
だから今の車社会ではそうして俳句とか季節感をテーマにしたものは作りにくいとなる

最も自然を感じるのは歩くことである、でも私自身ほとんど歩かない、すると歩く感覚が消失しているのだ、歩くことは今や車社会になると最も新鮮な原初的な経験になったのである、だから文明が発達したから人間は進歩するわけでもない
かえって人間の五感は消失してゆく、そうして自然でも感じなくなることは貧しいともなる、物はあふれて機械で便利になっても五感で感じることが消失していることは貧しいとなる

それから便利になると距離感がなくなる、芭蕉が旅したみちのくでも平泉でも新幹線で二時間だとなると何の感懐もなくなるだろう
ただ旅は通り過ぎてゆくだけだとなる、そしたらもう俳句などでも作れない
作ったとしても別なものとなる、距離感を感じること遠いなと感じるかことも一つの人間的感覚である、それが新幹線や飛行機によって奪われるのである
それで千本桜を見に船岡とかに自転車で行ったことがあった
その時その桜はみな散っていたのである
あれだけの桜がもう散っていて残念だったとなるがそれも一つの感懐を生んだのである

はるけくも千本桜を訪ねればみな散りしあと我が帰るかな

あれだけの桜がみんな散ってしまったなと深い感懐が生まれた
それははるばる苦労して自転車で来たからだったのである
その距離の感覚が深い感懐を生んだのである、それは芭蕉でも同じである
はるばる平泉に来たら五月雨の中に光堂が朽ちずに残っていたとなる
それははるばると歩いてようやく訪ねた距離感にあったのだ
その距離感がなくなるとき人間の感懐もなくなる
二時間でみちのくに来たとかなればそこは隣の村に来たと同じである
説きおさの感覚がなくなったのである

だから現代では旅というのは消失している、旅人もいないのである
ただ旅館とかホテルは旅の宿というより何を食べるとかグルメとかなり保養の場なのである、今のホテルは江戸時代のようにまず旅人を受け入れる所ではない
そこで高い金をもらって保養させる場所なのである
江戸時代なら木賃宿であり旅人の宿だったからである、泊まることを優先した場だったのである、だから豪華な保養のホテルがあっても現代では旅人の宿はないのである
旅人は歓迎されない、まして自転車で旅するような人は汚いし受け入れにくいし歓迎されないのである、まず旅人を歓迎しないのがホテルであり観光旅館である
それで私は旅したとしてもそうしたホテルとか観光旅館が多いからそういうものが嫌いだったのである、そういう場所は金持ちしか歓迎しないからである
それはどこでもそうだが江戸時代ならそういうことはないのである
おんな貧乏だから安く旅人を泊めていたのである

結局時代によって失われるものがある、それは絶対に返ってこない、再現できない
時代は再現できない、芭蕉の時代を再現できないから芭蕉のような俳句はもう作れないのである、つまり人間社会は得るものがあっても必ず失うものがある
だから人間の幸不幸など計れないのである、縄文人が不幸だったともいえない
そこで自然に驚嘆して日々生きていたのかもしれない、もちろん苦しんでもいた
ただその時代時代に感じるものが違っていたのである

ともかく現代とは人間の五感が消失してゆく時代である
膨大な映像時代になっているのもそうである、でもその映像を見て本当に人間の五感で感じるものを得られるかとなると得られないのである
その壮大な空間をテレビの画面では4Kでも8Kでも再現できないからである
人間は原始的な感覚をかえって機械化で喪失している
何か写真をとればそれで自然を感じたように錯覚しているのである
それは参考になるにしても五感で感じるものとは違っているのである

そこで現代では俳句とか短歌とかそうした五感で感じるものが衰退している
膨大な映像時代でありそれに圧倒されているからである
映像によって自然でもなんでも感じたとなるからである
でも実際は感じていないのである、感じることができないのである

ただそうはいっても機械をすべて否定はできない、今度買ったE-BIKEは走り自体が違っていた、だから軽快にどこでもすいすい走れる、自転車だと風でも感じるし五感で感じるから世界が広がった感じになったのである
自転車でもやはり遅いとすいすい走らないと行動しにくいのである
でもバイクだとはやすぎるのである、ただ車と違ってバイクは風は感じる

それで霊山から相馬市の方に下ってくると海から吹いてくる東風を感じる
その時山から海に近づくのを肌で感じるのである

東風(こち)吹くや相馬市に向かい山下りぬ

霊山から下りくると東風(こち)を体で感じる、その時相馬市に帰ってきたとなる
海の方に向かっていると感じる、それはいつも海側に住んでいるから余計に感じるのである、海の見えない地域では東風(こち)でもまた違ったものになる

東風(こち)吹かば匂ひおこせよ梅の花 主なしとて春なわすれそ

 右大臣菅原道真の歌でも東風(こち)は山から吹いてくるのである、京都は山に囲まれているからである、東山があるごとくその感覚は海側とはまるで違った感覚になるのである、それで会津は広いし方角がわからなくなった
 それは周りが山に囲まれているからそうなったのである
 ただ日本海になれば海に面していても風は違ってくる、だから風は場所によって違って感じる、だから風土だとなるのである、その土地の風土は土だけでなく風によって感じるのである


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