2019年03月06日

「謎の出雲、伽耶王朝」〈関佑二)を読む (出雲が蝦夷で伽耶から天皇が生まれた)


 「謎の出雲、伽耶王朝」〈関佑二)を読む 

  (出雲が蝦夷で伽耶から天皇が生まれた)
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 ●出雲はスサノオが始祖

春は種を重ね播きし、田の畦を壊したりした。秋には馬を放って、田の中を荒らした。またアマテラスが新嘗祭(新穀を神に供える祭事)を行っているときには、その部屋に糞をした。またアマテラスが機殿で神衣を織っているところに、馬の皮を剥いで、屋根に穴を開けて投げ入れた。

このような行動を木の神スサノオがとったのは、当然のことのように思えます。
森が田畑によって侵食されていく様は、スサノオにとって腹立たしい限りであったのではないでしょうか。
スサノオは日本国中に木々を茂らせた木の神様です。自分が育てた森を伐られて怒らぬはずがない、と思います。

蝦夷とは何ものなのか?それはただ大和王権に逆らった人たちの意味であり蝦夷というのは何か特別の決まった人たちではない
日本が建国される前に縄文人が生活していた、そこに外来の人たちが侵入してきた
だから出雲神社のスサノオは稲作する者たちに嫌がらせをした
それは生活形態が違っていてそれが争いになった、それは遊牧民と農耕民の争いと共通している、万里長城ができたのはそのためだったからである
世界史を見ればそういうことは人間共通の問題としてすでにあった
それで人種の相違とかよりそうした生活形態の相違が人間にとって大きな軋轢を生むものだったのである
日本が建国する大和朝廷ができる前にそこに韓国がとりわけ伽耶国が深くかかわった
それで天皇は伽耶国から出たという説がある
それだけ伽耶というのは日本と一体化して不可分な存在だったのである
ただ百済とか新羅とかなると伽耶国の後に日本にかかわったのであり日本が建国する大和王権ができる前は伽耶国が日本に深くかかわっていた

それはこの本で解き明かしている、蝦夷は何かとなれば縄文人でありそこに伽耶国から来た渡来人がありその人たちが共同して大和王権に逆らったのであり他に物部氏とかもそうである、仏教を取り入れたのは大和王権を作った人たちであり物部氏は神道派だからである、仏教というのもそれは仏像は鉄で作るし寺でも建築技術が必要だし技術と一体化して入ってきたのである
それは伽耶から最初入ってきたのである

●長野県の諏訪神社は出雲系

そしてもう一つ大事なことは長野県の諏訪神社もタケミナカタの神が由来であり出雲系統でありその長野県辺りから甲斐国がありそこから蝦夷の地域に移住している人たちがいた諏訪神社というのは非常に多いのである、そこで南相馬市の萱浜(かやはま)はもともとカイ浜と呼ばれていた、そのカイは甲斐から来ているという伝説があるがそもそもカイというとき北海道のことでありカイ族のいた地域でありカイとはアイヌのことでもあった
それも謎のなのだが出雲系は縄文人の勢力圏であり長野県ふ山梨県辺りは甲斐であり武田氏の支配地である
萱浜となっていればカヤハマだったら萱原にもなる、でももともとはカイだったのである縄文語やアイヌ後も地名として残っているという時それはアイヌ語なのか?
縄文語なのか判別できないしアイヌがどれほど縄文人とかかわっていたのかもわからない実際どうしても縄文人が日本人の古層としてありアイヌは比較的新しいものとして見ている、鎌倉時代まではさかのぼれるにしてもそれ以上は歴史を遡れないとかなる
その論争はなかなか決着がつかないのである
ただ確かなことは蝦夷と出雲は一体であり鳥取でもずーず―弁だとかなるとそうした古層と通じているからそうなっているのか?
この本はそれを解き明かすものとして一読の価値はある   

「荒覇覇吐王国」
「日高見王国」
「邪馬台王国」
「吉備王国」
「出雲王国」
「不弥王国」
「投馬王国」
「伊都王国」
「熊襲王国」

古代では大和朝廷で統一される前はこうしたクニがあった、会津も大きなクニだったがここまで大きなクニとはならなかった

●出雲系の神社が多い訳(氷川神社もそうである)

出雲系の神社は日本に本当に多いのである、最近氷川神社が高平にあることに気づいた
これも古い神社であり埼玉県の大宮を中心にして多いのである
この祭神はスサノオであり出雲系統なのである
氷川神社は「素戔嗚(スサノオ)」を祀っている。
大国主命(オオクニヌシ)と櫛稲田姫(クシイナダヒメ)を合祀しているところもある。
埼玉県さいたま市の大宮にある、武蔵一之宮、氷川神社がそうである。
が、いずれにしても「出雲系の神々」「国つ神」である。
隣接する千葉や茨城になると、違ってくる。

簸川郡斐川町」といった。簸川も斐川もともに「ひかわ」と読む。これは出雲平野を流れる「斐伊川」のことであり、簸川も斐川も斐伊川の古称である。
そしてこの埼玉県にある「氷川神社」は名前の由来は、出雲のヒカワ(簸川・斐川)から来ているのだという。
アラハバキの「ハハ」は古語で蛇のことであり、「ハハキ」とは「蛇木」あるいは「龍木」を意味し、直立する樹木は蛇に見立てられ、古来は祭りの中核にあったという。
実は出雲地方では大樹の周りを藁縄を蛇体のように巻き付ける風習があり、あちこちの神社で見かけるのでこの説には納得する

このアラハバキも渡来人の伽耶国のツノガノアラシトから来ているきではないか?アラがまず韓国にある、伽耶国にある阿羅国のことである、ハバキは良くわからないにしても土着の民族であり縄文人でありそれと合体したのがアラハバキだともなる

阿羅国(阿羅伽耶)は、やはり加羅(伽耶)諸国のうちの一つで慶尚南道(キョンサンナンドウ)咸安郡市(ハマングン)にあった国のようです。
意富加羅国(金官伽耶国)の王子は、名はツノガノアラシトです 

韓神祭り(からのかみのまつり)上代においては二月十一日に行われていた
宮内省の内に祭られる韓神社の祭り、中世以後衰え廃絶した

伽耶は韓であり加羅であり後に唐ともなった、唐神と南相馬市の古代真野郷地域にあるのは唐に変化したのである
何か加羅とか伽耶とかは大和朝廷に統一されてから隠されてきたのである、それは統一の過程で伽耶国の人が犠牲にされたためだという、それでもともと伽耶とあったのが草原(カヤハラ)萱になった、それで漢字をあてたから日本の地名は誤解しやすいのである 
             
その解釈はいろいろある、アラハバキ神社は猪苗代湖畔の湖南から行った所にもある、ただこの辺ではめずらしいのである
私が見た限りではここしか見たことがないのである

島根県益田市に染羽天石勝神社があり、祭神の天石勝命(アメノイワカツ)と
多数の天津神を祀っている。
ここに弁天池があり、イワクラ信仰があり、かつては滝があったそうです。
725年天石勝命を祀ったと考えられ、この神々の由来には、
元国津神を天津神として祀ったようです。

染羽(しめは)は標葉であり浪江の古代の郷の名前である、これも出雲系に由来している

鹿島」や「香取」など、「ヤマト系」というか「天つ神」の神社が多くなる。
 面白いことに、千葉・茨城と東京・埼玉の境界あたり、荒川流域には「久伊豆(ひさいず)神社」という神社がたくさんある。
これも「出雲系」「国つ神」の神社であるが、見事に「氷川勢力」と「鹿島・香取勢力」との境界に集中している

出雲地方から直接勧請された神社は「須賀神社」「八雲神社」「出雲神社」などと称している場合が多く、これに対し、かつて牛頭天王を祭っていた祇園信仰の系譜を引く神社は明治以降「八坂神社」「祇園神社」「津島神社」等と称したところが多い。同じスサノオ信仰でも、氷川神社と称している諸社はそれら両系統とも異なり独自の信仰圏を形成している。

つまり出雲系統の神社がある地域はもともと縄文人が住んでいてそうなった
その祭神が出雲系統なのである
ただ今の茨城県とかは常陸(ひたち)の国であり違っていた
つまり埼玉県の氷川神社がある地域はもともと出雲系が縄文人が蝦夷の勢力が強い場所だった
氷川神社は南相馬市の原町区の高平にもある

だからこそ稲荷山古墳から発見された鉄剣の銘文にこの地を支配した族の名前が記されている、その中にカサヒヨ カサハラと記されているのは渡来人である
カサとは韓国にある地名である、笠原というときこの地に残された万葉の笠女郎の真野の草原(かやはら)の歌がある、その笠女郎の父親は

笠 麻呂(かさ の まろ)。姓は朝臣で、吉備笠垂の子とする系図がある

吉備津神社の社伝に、中山の麓に茅葺宮を営み、吉備津彦神を加夜臣奈留美命(かやのおみなるみみこと)が祀ったのが神社の起こりという事で、加夜臣奈留美命(かやのおみなるみみこと)とは、飛鳥の神名備に坐せた、加夜奈流美(かやなるみのこと)ことで、この賀陽氏の始祖神です。吉備津神社の主祭神は、大吉備津彦命ら八柱で、二柱は賀陽氏の祭祀神で、他は吉備臣の先祖とされる孝霊天皇の子神。

この「温羅(うら)伝説」の温羅こそ、「吉備伽耶王国」という巨大勢力を代表する人物で、吉備賀陽氏自身であり「温羅(うら)伝説」は、古代「吉備伽耶王国」の始祖伝承を伝えた話
後に、百済勢力が進出してきて吉備津彦と争うこととなる。

吉備は大和王権として日本が統一する前に大きな国だった、それで会津の大塚山古墳から三角縁神獣鏡が発見された、これは吉備の古墳から発見されたものと同型である
『同笵鏡』(どうはんきょう)又は『 同型鏡』(どうけいきょう)に関するお話です。三角縁神獣鏡は、前述した通り、同じ物ではなく、沢山の形が存在しますが、同じ鋳型から鋳造された鏡を 同笵鏡または同型鏡 と言います。黒塚古墳出土の32枚の分析は、整理された情報が、私にはありませんので、それ以前までの分析では、 『88組』、『275枚』が、同笵鏡だそうである
ただこの同型鏡は全国に分布している、九州にも分布している、でもなんらか会津まで及んでいたことは注意すべきである、なぜなら東北地方ではここにしか発見されていない


●出雲系の神社が多い訳

出雲系の神社は日本に本当に多いのである、最近氷川神社が高平にあることに気づいた
これも古い神社であり埼玉県の大宮を中心にして多いのである
この祭神はスサノオであり出雲系統なのである

氷川神社は「素戔嗚(スサノオ)」を祀っている。
大国主命(オオクニヌシ)と櫛稲田姫(クシイナダヒメ)を合祀しているところもある。
埼玉県さいたま市の大宮にある、武蔵一之宮、氷川神社がそうである。
が、いずれにしても「出雲系の神々」「国つ神」である。
隣接する千葉や茨城になると、違ってくる。

「鹿島」や「香取」など、「ヤマト系」というか「天つ神」の神社が多くなる。
 面白いことに、千葉・茨城と東京・埼玉の境界あたり、荒川流域には「久伊豆(ひさいず)神社」という神社がたくさんある。
これも「出雲系」「国つ神」の神社であるが、見事に「氷川勢力」と「鹿島・香取勢力」との境界に集中している。

出雲地方から直接勧請された神社は「須賀神社」「八雲神社」「出雲神社」などと称している場合が多く、これに対し、かつて牛頭天王を祭っていた祇園信仰の系譜を引く神社は明治以降「八坂神社」「祇園神社」「津島神社」等と称したところが多い。同じスサノオ信仰でも、氷川神社と称している諸社はそれら両系統とも異なり独自の信仰圏を形成している

つまり出雲系統の神社がある地域はもともと縄文人が住んでいてそうなった
その祭神が出雲系統なのである
ただ今の茨城県とかは常陸(ひたち)の国であり違っていた
つまり埼玉県の氷川神社がある地域はもともと出雲系が縄文人が蝦夷の勢力が強い場所だった
だからこそ稲荷山古墳から発見された鉄剣の銘文にこの地を支配した族の名前が記されている、その中にカサヒヨ カサハラと記されているのは渡来人である
カサとは韓国にある地名である、笠原というときこの地に残された万葉の笠女郎の真野の草原(かやはら)の歌がある、その笠女郎の父親は

笠 麻呂(かさ の まろ)。姓は朝臣で、吉備笠垂の子とする系図がある

吉備津神社の社伝に、中山の麓に茅葺宮を営み、吉備津彦神を加夜臣奈留美命(かやのおみなるみみこと)が祀ったのが神社の起こりという事で、加夜臣奈留美命(かやのおみなるみみこと)とは、飛鳥の神名備に坐せた、加夜奈流美(かやなるみのこと)ことで、この賀陽氏の始祖神です。吉備津神社の主祭神は、大吉備津彦命ら八柱で、二柱は賀陽氏の祭祀神で、他は吉備臣の先祖とされる孝霊天皇の子神。
この「温羅(うら)伝説」の温羅こそ、「吉備伽耶王国」という巨大勢力を代表する人物で、吉備賀陽氏自身であり「温羅(うら)伝説」は、古代「吉備伽耶王国」の始祖伝承を伝えた話

後に、百済勢力が進出してきて吉備津彦と争うこととなる。

●伽耶国の王子のツノガノアラシトの東北地方に残した跡
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それが東北からはみちのくからは遠い世界のことのように思うがそうではない
そもそも地名が残るということはその土地と深くかかわらなければ生まれないし定着しないはずなのである、それが神社でも地名でも伽耶国とか韓国系統のものが多いのである
神社は先祖を祭る時その先祖は伽耶系統なのかともなる
津浪で話題になった津神社は実際はツノミツとかツノミヤとか言われる
津浪とは何の関係もなかったのである
小高の角部(つのべ)でもそうである、それがツノガノアラシトに由来しているのである縄文人が住んでいた地帯にこうした伽耶国の鉄を生産する技術や須恵器を作る集団が入ってきた、それで常磐線に末続(すえづく)駅があるがこれももとは出雲系の神社が基になっいたのである    

岩手県奥州市胆沢南都田に角塚(つのつか)古墳がありこれもツノガノアラシトのツノだとすると宮城県の北上川をさかのぼり登米に真野氏一族が鉄を求めて上ってきている、するとさらに一関を越えて北上川を上りそこまで達したのか
そして津軽とはこれもツノガノアラシトがなまったものだと推測したときそれだけの広がりを蝦夷の地域東北に影響力があったのかとなる、津軽は離れているとしても一つの連合体としてあり棚倉で蝦夷とヤマトタケル軍が衝突したとき津軽からの応援があったというとき蝦夷はツノガノアラシトなどの渡来人が連合していたともなる

登米市(とめ)の登米(とよま)まで製鉄集団の真野氏が移動した (奈女加多(行方)が移動している)

その渡来人は鉄を生産して力をもち蝦夷と一体となりヤマトタケル軍と戦ったとなるからだ
この本でもそういうことを書いている、蝦夷が強力だったのはツノガノアラシトとかの渡来人一族を敵としていたからである
物部氏もその中に混じっていて混成部隊であり強力だったのであ
吉備は大和王権として日本が統一する前に大きな国だった、それで会津の大塚山古墳から三角縁神獣鏡が発見された、これは吉備の古墳から発見されたものと同型である
ただこの同型鏡は全国に分布している、九州にも分布している、でもなんらか会津まで及んでいたことは注意すべきである、なぜなら東北地方ではここにしか発見されていない

●万葉集に残された歌の背景

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その裏付けになるのが万葉集の歌だったのである

会津嶺《あいづね》の 国をさ遠《どお》み 逢はなはば 
偲《しの》ひにせもと 紐結ばさね
     〜作者未詳(東歌) 『万葉集』 巻14-3426 相聞歌

つまり会津だけがクニであった、東北地方ではクニとして認定されている場所はないからである

陸奥(みちのく)の真野(まの)の草原(かやはら)遠けども面影(おもかげ)にして見ゆといふものを 笠女郎

この歌の草原(かやはら)は地名としてきたがそこはただ港のような交易があった一地点と推測する
では船が来たとしてそれが太平洋を渡り来たかどうかはわからない、もしかしたら入江内だけを行き来していたのかもしれない、焼津には確かに奈良から大船が来ていた

そこより入り幸でまして、走水海を渡りたまひし時、その渡の神浪を興し、船を廻らして得進み渡りたまはざりき。こにその后、名は弟橘比売命白したまひしく、「妾御子に易りて海の中に入らむ。御子は遣はさえし政遂げて復奏したまふべし」とまをしたまひて、海に入りたまはむとする時に、菅疊八重・皮疊八重・絹疊八重を波の上に敷きて、その上に下りましき。是に其の暴自ら伏ぎて、御船得進みき。ここに其の后歌曰ひまひしく、

 さねさし 相武の小野に 燃ゆる火の 火中に立ちて 問ひし君はも

とうたひたまひき。かれ、七日の後、その后の御櫛海辺に依りき。すなわちその櫛を取りて、御陵を作りて治め置きき
この伝説も信憑性がある、なぜならそうして荒れた海を鎮めるために人身御供が行われていたからである

とにかく相模湾辺りまでは大和健(やまとたける)は船で来ていたとなる
そこから関東とか東北になるとまた遠いから信憑性がなく伝説的になる
真野の入江が縄文海進でありそこに船が行き来したとしてもそれは入江内だけのことかもしれない、そこには船着とか市庭という地名は確かに残っている

 焼津辺にわが行しかば駿河なる 安倍の市道に逢ひし児らはも

  ここでは明らかに市が開かれていたのである
 いづれれにしろなぜ万葉集の歌が日本の歴史にとって重要なものになっているのか?
それを今のような個人的な恋愛の歌ではない、そうであってもその背景には日本の歴史がかかわって形成されている
つまり一私人の歌ではないからその背景をよむとることが必要になる
するとそこから日本だけではない韓国の伽耶とかも深く関係してくる
日本建国神話にかかわるものとなる
つまり一地点のことではない、韓国とかその範囲が拡大してゆくのである
そこに万葉集だけは日本建国と深くかかわるものを歌い収めているとなるから貴重なのである
それは物的証拠としては会津の大塚山古墳から三角縁ち神獣鏡が出たことや南相馬市の鹿島区の真野地域の小池の古墳群の一つから金銅双魚佩が出たことでもわかる
これもかなり珍しいものなのである、それが物的証拠となっている




posted by 天華 at 21:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)
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