生業を返せ、地域を返せ!福島原発訴訟
(金が欲しいだけだとかその矛盾)
生業を返せ、地域を返せ!これは何なのか?
生業(なりわい)と地域とは何なのか?
この矛盾が一番現れたのは漁業関係者なのである
魚を獲ることが生業であった、でもそれでは今は生活が成り立たないから漁業権を東電に売り事故前も豊かな生活をしていたのである
それで周りの人からうらやましく思われていたのである
漁業関係者はそれでこんな訴訟とか何も言わない、事故前も事故後も手厚い補償があるからだ、なんら生活自体に困ることがないのである
その他の成業を奪われた人たちが農業とかその他牧畜とかの関係者がもっと補償金を出せと抗議しているのである、もちろんその範囲は今は広いから地域を返せというとき地域で暮らせなくなったのだから多いとなる
でもこれも矛盾なのである
農業であれ漁業であれ林業であれそうしたものはもう生活ができないと事故前から跡継ぎもいないとかもう誰もやりたくないものになっていた
そこで大原では古い農家だったが街の方で息子は働き家を継がない、病院で一緒になったとき猫をのことを心配していたのである
今は空家になっている、そういうことが日本全国で多いのである
ただこの生業というのは今ではみんな農民ではないから幅広い職業の人たちだとなる
でもなんか矛盾なのである、もし事故前でも一億円出しますよとなれば誰も生業などしない、こだわらない、みんなその金の方が大事であり完全にそうしたら生業を放棄しているのである
そもそも原発を積極的に誘致したのもそのためである
生業では生活できないからそうなったのである、ただ原発事故以後にその生業を意識したとはなる、何もしないで仮設に入り毎日酒を飲みパチンコだとギャンブルで生活するようになってこれも生業を原発事故で奪われたからだとなったのである
でもその前に生業といってもそれより金が欲しい、金があれば農業でも漁業でももうやめるよとなっていたのである、だから今になって生業を奪われたということを訴えてもそれは補償金をもらいたいからであり別に生業を重視しているわけではないのである
つまり生業というものを価値あるものとして意味あるものとして自覚していた人はいないむしろ金にならないからやめたい、金になればもう年だしやめたいとなっていたのであるだから生業を返せというけど地域を返せというけど本当に生業に地域に生きることに価値と意味を重んじていたかとなるとそういうことは自覚していなかったのである
原発事故以後生業を奪われたと意識するようになったのである
それもやはり補償金をもらえるということで訴えるようになったともなる
何かこういう矛盾がこの辺にはあり指摘してきた
それを言うと何かバッシングされる、被害者として訴える側につけとなる
でも南相馬市では小高はそういうふうに訴えることができる
それは避難地区にされたからである、被害者になったからである
一方で南相馬市でも原町は鹿島区の三倍の補償金をもらっているから協同で訴訟を起こそうとしてもできなかった、利害が一致しないからである
そもそも生業とか地域に生きる価値は何なのか?
そんなこと意識していた人はいないだろう
ただ豊かな生活をしたいというだけである、生業に価値があり地域に価値があるというときそれが経済的な豊かさをもたらすものとしてしかありえなかった
それを今の時代に責めることはできない、みんなそうして生きているのが現実だからである
とても山尾三省のような極貧を現代で生きるのは無理だからである
パンが贅沢だとなれば誰もそんな人の言うことを聞かないのである
むしろ人間は知っている人でもどれだけ貪欲になっているか見ている
立派な家を借金で建てる、大工だけではないサイドビジネスもする、事業を起こしては失敗しても借金しても隠して成功したようにみせかけ贅沢をしている
そういう贅沢が多いのである、原発周辺は相当に原発関係の仕事で潤っていたのである
だから原発に反対することはできない、もうその地域に住んで生きることすらできなくなっていたのである
なぜなら毎日の糧を得るのは生業ではない、原発で働くことだとすればそうなる
生業などは今では暇仕事みたいなものになっていた、それで生活が成り立たないから事故前でもそうなっていたのである
山尾三省の場合は極貧でも農業とか地域に生きる価値を求めていたのである
でも今の時代にそんなことを追求するのは変人であり誰もついていけないのである
だからそういう人は何か貧乏を売り物にしている芸人とかにも見られるのである
「俺はこれだけ貧乏で生きれるんだ」ということを売り物にするテレビの番組とにていたのである
それは現実離れしているからただ仮想のドラマのように見ていた、演劇しているのだと見ていたのである
でもそうはいっても山尾三省は島で暮らすことに山村で暮らすことに意味と価値を求めていたことは確かなのである
では今田舎でもそうした価値を求めているのかとなるとない
もっとうまいパンを食べたいもっといい家に住たいとかいい車を欲しいとか限りなく都会人とも同じような贅沢な暮らしをしたいというだけである
そういうお前は何なのかとなれば自分も同じようにそんな極貧の生活をしたくない、またしていないのである
だから自分自身もそんなことを言う資格があるのかとなればない
ただ私の場合はどうてしこうなったのか、その矛盾をいろいろと解明しようとしている
何に問題があったのか?それを追求してきたのである
そもそも様々な職業があり仕事があるとして生業だけではない、その仕事に意味と価値を求めてしている人は本当にまれだともなる
ただもうけをだせばいい、利益を出すことが至上命令だとなっているのが普通だから別にこうして地域の人とか生業を返せとか訴える人を批判はできない
銀行だって詐欺まがいの投資信託を売りつけて自分達の会社がもうければいいとかなっているしみんな会社とはそういうものだからである
人間はとにかくどんな人でも矛盾を生きている、生業を返せとか地域を返せというけど一体生業とは何なのか、その価値は何なのか、それを追求してきた人はいない
やはり金にならないとしたら生業も価値ないものとされていたのである
地域でも田舎でもあなたに一億円やるからどこにでも暮らしていいとなったら若者でも都会に出て行くようになったろう、しかたがないから田舎に地域に残っているというだけの人も多かったのである
積極的に地域に生きる価値を求めていた人はまれなのである
までいな生活を主張していた飯館村でもそこに住むことに価値を意味を見出すより今や一億円の金が入ったら村から出てゆくとなったのである
もちろん放射線とか問題があるから理由になるが何かこれだって貧しい不便な飯館村に生きる価値とか意味を求めていたとはならないからだとなる
そこにもともと住んでいた人はそこで生きることを強いられていただけだとなる
一億円もらえば外に出て都会で暮らした方がいいともなっていたのである
結局人間は意味あるものに価値あるものに生きることは理想論でありそれと現実が矛盾して苦しむ悩むのがどこでもあるのだ
カルト宗教団体でも宗教なのに現実は御利益を利益追求しかない、権力を得れば地位や金にありつくしかないのである、そこで理想を求めてもそんなものは全くなくなっているとか何かそういう矛盾が常に人間にはある
それがこの世の現実だとなる、必ずそうした矛盾につきあたるのである
理想と現実の乖離に苦しむのである
もし生業に地域に生きることにもともと価値と意味を求める生活をしていたら考えて生活していたならこんなことを書かない、何か自分たちの都合良く金を要求しているだけでありそれは前からそうだったとなり全面的に応援はしにくいのである
ただ人間は現金だからもし補償金ももらえる立場なら一緒に応援して訴えるとなる
どうせもらえるのは訴える権利のある人だけであるとなれば一緒に行動できないのである
ただ本当に価値と意味を求める戦いとなれば参加することができるかもしれない
それは別に補償金をもらう戦いではないからだ
本当に生業に価値を置き地域に生きることに価値があり意味がある戦いなのだとなれば共通した目的をもつからである
でもそうなると犠牲とか強いられたり利益にもならないとかなり追求できなくなる
パンすら贅沢となってそうした山尾三省のような理想とか価値とか意味を求めることができるのか?
それは実際に過酷であり若くして60代で夫婦が死んでいることでもわかる
それは今の現実の生活とかけ離れているからそうなったのである
戦前の三野混沌とかはみんなそういう極貧の生活だったから今とは違っていた
ただそういう苦しい生活をから農業だけの生活から抜け出したいとして戦後の経済成長時代を日本は築いたのである
ともかくどうしても生業を返せとか地域を返せというときそういう生き方をしてきたなら賛同して共同してもいいが実際はそうなっていなかった
そうできなかった現代という時代がある、こうした矛盾がありそれも前提にして見なければならないとなる
国民からもそうして訴えても必ずしも共感を得られないのはそのように見られるからである
あいつらは原発で豊かになったのに事故後もまた補償金を限りなく要求してくる
原発乞食なんだと言う人がいるのもそのためである
内部でも補償金をたんまりもらった地区とそうでない地区ではもめているからである
ただこういう矛盾はここだけのことではない、どこにでも世の中自体がそうなっているのである、その矛盾に苦しみ悩んでいるのである
医者だって金になるためにはいらない薬を与えたりやはり医療も金だとなるからだ
だからここだけで起きている問題でないのである
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