2019年02月22日

神社が津波の被害からまねがれたのはなぜ (古いものは何か理由があってその場に作られ人が住んだから)


神社が津波の被害からまねがれたのはなぜ

(古いものは何か理由があってその場に作られ人が住んだから)




福島県南相馬市小高区浦尻前田 綿津見神社

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泉官衙遺跡
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ここも丘によって津波がさえぎられ被害が少なかった

原町区下高平鎌倉時代中世遺跡群
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桜井古墳の手前までも津波が来ていた     
古墳も古いから高台にあるのが多い                  

南相馬市鹿島区烏崎八竜神社

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磯部(寄木神社)
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相馬市松川浦津神社(つのみや)  
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津神社から下に原釜がありそこに家が密集して被害を大きくした
そこはやはりもともとは新しく住んだ人たちだとなる                            


津波で不思議だったのは古い場所が神社が建っている所が高台にあり被害をまねがれた
小高の綿津見神社からたどるとそうである
その前に沼があったがあれは津波でできたものかと思ったら津波の前にあったのだ
それも不思議である
どうして沼ができたのだろうとインタ−ネットで報告していたサイトがあった
するとあそこに慶長津波とかで海の水が押し寄せて沼ができたのか?
あそこに水がたまりようがないからである、これは謎である
ただあの綿津見神社も辛うじて津波から残った

それから原町区の泉官衙遺跡も丘の裏側にありそこで津波が弱められて大きな被害にはならなかった
この地形の影響が本当に津波では大きかったのである
津波の勢いが弱まるとそれほど被害がない、松島でも勢いが島が障害物になってそがれて水は徐々に上がったが強烈に押し寄せることはなかった
そもそも津波は物凄い水の塊りとなって圧力があまりにも強大となりそれが大被害をもたらしたのである
だから水の勢いを弱くするとそれほどの被害にならなかったのである
だから地形が影響してそうなった

そして古い場所とかにある神社とか寺と石碑とか見るとそこには津波は来ていないのである、その位置を図で示したように近くまで来ても津波の被害はなかったのである
ただ烏崎とか海老とか磯部はなぜ家が密集していたのか?
それは漁業する港があり便利だからそこに集まったのである
それは三陸とか他でもそうである、明治以降の三陸津波の後でも便利だからとまた元の低地の港に集まって生活していたことでもわかる
烏崎も海老も磯部ももともと港があったからそうなった、そこは慶長津波の400年前からあった、海老は最も古くエヒであり蝦夷が住んだ地域だから本当に古い場所だったのである、そこは高台だったから住んだ
その下の右田は低地であり江戸時代に開拓して住んだから新しいのである
海老村には弥生時代の住居跡があることでもわかる

ではなぜ400年前の慶長津波の記録が残っていないのか?

それは大きな謎だった
ただ八沢浦が入江になり海だったときその奥の柚木(ゆぬき)には津波の伝説が残っていた、

神社の場所が津波の届くぎりぎりの標高にあったことです。標高線と神社の位置を重ねてみると、南相馬市原町区では標高10メートル、相馬市では標高5メートル近くに神社が立地していることがわかりました。また、そのような規則的な配置は古い神社に多く見られて、明治以降に新築・移転されたような新しい神社には見られませんでした。結果として、新しい神社には流されたものが多かったのです。

これを証明しているのが烏崎の八竜神社である、本当に社殿すれすれまで津波が来たが残った、その下は全滅になった
そして平地の津神社は八竜神社の分社であり住む地域が広がってそこに分社したのであるもともとは高台にある八竜神社が元なのである
そこは津波からすれすれと残ったのは奇跡的だった
ただ海老村は一番古い村でも全滅した、それは高台にあり安全だと思われていた地域である

てんとう念仏」と通称で呼ばれている場所がある。
 水田から民家の脇を通って、丘に登っていく。その道が上の写真。 
 <津波が来たときにこの山に登り、念仏に唱えて津波が収まるように祈った>ということから、この地が「てんとう念仏」と言われるようになったという。 

 もうひとつは、すぐ近くにある「急ぎ坂」と呼ばれる坂。 
 <大きな津波が来て急いで駆け足で坂道を登った>というこ

この地域は八沢浦の奥である、もともと八沢浦は海であり入江になっていた
だから人は住んでいなかったのである、明治以降に開拓された場所だからである
それで当然被害があったのは津波が押し寄せたのは人が住んでいる柚木だったとなる
そこに伝説が残されたのは地理をみればわかる

ではなぜ烏崎とか海老とか磯部に津波の伝承が残されなかったのか?

それはいろいろ調べてもわからない、資料が記録が何も残っていないからである
ただその津波が来たとき相馬藩では戦国時代であり争いがあり戦さがありその方の記録は事細かに相馬藩政史に残されている
でも津波の記録は生波(いくなみ)で700人溺死としか記されていないのである
それで伝承があるのかと調べてみてもこの柚木に残っているだけなのである
あとは小泉川を上った所の諏訪神社に舟が流れてきて木に止まったとかいう伝説があるその諏訪神社は相馬市内の奥なのである
それは慶長津波なのか、800年代の貞観津波なのかわからない、相馬市の松川浦から奥でボーリング調査して発見されたもの砂は貞観津波のものだった
慶長津波だとするとやはり柚木村しか残っていないとなるのだ

だから記録が残らないのは磯部村とか海老村とか烏崎村とか他でも全滅して伝える人がいなくなり残らなかったのか?
津波の恐ろしさは村ごとなにもなくなることなのである
草戸千軒とかでせ川の洪水ですべて町ごと消失して今になり何か遺物が発見されている
そういうことが他でもあり、古代のエジプトの遺跡でもそういうことがある
街ごと全体が失われて何も残らないということが歴史上あるからだ

ともかく古いものは何か理由があってその場に建物でも建てられているのである
たいがい高い所に神社があるというときもともと日本は低地は湿地帯で住みにくい場所だった
それで葦原瑞穂の国ともなっている、そうした湿地帯を開拓して田んぼにしたからである
下駄は湿地帯を開拓するために作られたものだったからである
だから川子でも低地はもともと海であり塩崎まで海であり今回の津波で船着まで津波が来たことには驚いたのである
そこには船が奈良時代から平安時代に来ていたからである
この船がどこから来たのかは不明にしても船が行き来していたことは確かなのである
川子でもは八竜神社は高台にあるからだ

そして六号線の海側に津波の被害がほとんどあった
それで六号線は元の浜街道にそって作られたので古い道だったからそこまでは津波が来なかったとなる
それでなぜ山元町があれほどの被害になったのか?
それは六号線の海側に住宅地が広げたからである、あそこは仙台の通勤圏ともなっていたからである
それで有名な元野球選手も住んでいて被害にあったとかなる
つまり何か新しい場所はその土地の成り立ちとか歴史を無視して宅地造成するから被害にあうのである
地震でももともと沼だったような地盤の悪い所に家を建てるから被害にあうのである
だからどこでもその土地の古い場所は安全であり新し場所は何か悪い土地であり危険もあるとなっていたのである

いづれにしろ津波原発事故から8年過ぎてもその傷痕は癒えない、それだけ甚大な被害だったのである、それは戦争の被害とにていたのである
そういうものは簡単に忘れることができないのである


posted by 老鶯 at 10:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係
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