震災復興は、なぜ遅れるのか?
(明治以降私的所有権など認めすぎた―共同できない地域になっていた)
正規の法定相続人をたどると、この土地だけで地権者の数は100人以上になったといいます。これらの地権者は全国に散らばっており、所在地を突き止めるだけでも困難を極めます。結果として、町は2012年11月にこの土地の取得を断念しました。大槌町だけでなく、こうした所有者不明土地の事例は被災各地で見られたのです。
ここにももう土地が個人所有に分割されて利用すらできなくなっていた
入会権でもそうである、江戸時代は共有したが山が無数の個人の所有に分割された
それで海ですら俺の前の海に権利があるとして補償金を東電に要求していた
そして避難区域になった所はあらゆるものに補償がついた
私道のようなものがありそれは自分に権利があるとして補償を要求した
つまり私的権利を認めすぎた結果として公共心がなくなり公共的なものを優先できない
共同性がかえって明治以降失われたのも逆説である
江戸時代というとかえって何か遅れたものであり明治以降は進んだものとして見ていたが実際はそこにも多くの弊害が生まれたのである
江戸時代はいろいろな見方があるにしろどうしても小さな村で狭い地域で生活するから共同する、それで伝統的なものを大事にする、村に伝えられた祭りとか行事などを大事にする、それは村を持続させるもはのとして必要だったのである
これまで述べてきた先祖がその生活した場に生きているというときもそうである
田植えの時期に山から先祖がおりてきて秋になると山に還るとかの感覚は別に宗教でもないが狭い村の中で共同して生きていたからそういう祭りが生まれた
それは宗教ではない、文化だったのである
そういうものが失われたとき人間の心は不安定になる
死者はどこにいるのかとなるときその死者の居場所もなくなる
ビルの谷間とか煤煙の工場地帯とかに住んでいればそうなる
そして現代人は近代化でそうした精神の不安定にさらされて故郷喪失者になった
戦前まではまだ村というのは維持されていたがもう戦後は消失した
核家族とか会社員となり工場で働き家族はその単位になったからである
前にも考察したがプライベートとは奪うというとき無数の私的所有権が与えられて公共的である共同的である土地も分割されたのである
そして金が唯一の価値となりすべてが金に換算される、それも私的なものとして奪うものしとて所有されることになる
公共的なものが明治以降であれ戦後には特に失われたのである
戦前は国家共同体で一体化したが戦後はそれも否定されて会社企業共同体になったからである
だからこれまでなぜ復興できないのか?
それはこうしたし時代の影響もあるとしてどうにもならないとも書いた
つまり共同体とか一体化していた村がすでにない、すると一致して共同して復興しようとするものがなくなっていた
それより補償金をもらって外で家を建てて家族のことがまず先決だとなったのである
かえって補償金で市町村は分断されたのである
それが何か共同で市町村の安全を守るべき消防所すら建てられないという現実があった
土地は本当に強固な私的所有権で細分化されている
村の共同の土地という感覚もなくなっているのである
それでこれだけ耕作放棄地が増えたというときこれはここだけの特殊な事情だけではない村の生活をみんなで守るという共同体の喪失があったからだとなる
そもそも農業は跡継ぎがいないとか金にならないとかで荒廃していたから全国的にも過疎になったり耕作放棄地が増えている、そこは荒廃してゆく
南相馬市の原町区でもそうである、大原では知っている人の家が空家になっている
息子は跡を継がない、街で家をもって働いている
そして病院に一緒にいたとき猫のことを心配していたのである
隣の村でも息子か娘が街で働いていて補償金で家を建てたとなる
そういう人がまた多いのである
補償金でかえって村が捨てられて町でも村でも捨てられたのである
これは津波の被害地でもそうである
過疎化していたのが一気にさらに過疎化して村や町を捨てて内陸部に移住して帰ってこないのである
だから本当に絆のことを盛んに言われたが第一内部でさえ絆がなくなっていたのに外部で絆、絆と強制されるように言われたというのは本当である
外部の人たちが入ってきたからそれが言われたが内部の絆は喪失していたのである
そういう社会に住んでいたからそうなったとなる
だから結局八年過ぎても復興はできなかったとなる
何か意外と絆がなくなったもろい社会に住んでいたのである
それでグロ−バル化と広域社会化しているからさらに人々は分散して帰らなくなったとなる