2019年01月27日

秋の日本海に沿って自転車の旅をたどる(俳句と短歌) (記憶をたどる旅の不思議)


秋の日本海に沿って自転車の旅をたどる(俳句と短歌)

(記憶をたどる旅の不思議)
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市振に来たるやあわれ秋鴎

出雲崎沖に佐渡島遠きかな旅人よりて秋の日暮れぬ
良寛の行きし杣道我が歩み五合庵なれ生きにしものかも
良寛の五合庵より野積かな秋の夕日の海に映え没る
良寛の五合庵より一本の松によりさり月のあわれも
寺泊出雲崎すぎ日ば暮れむ月のあわれも松によりさる
秋雨のしととふりにき旅人や瞽女(ごぜ)の碑ありてあわれ深まる
直江津に一夜の宿や旅人のはや去りにけり秋のふけゆく
市振に着きしや遠く我が来る秋の陽没りぬ日本海かな
市振の漁港小さくあわれかな烏とまりて秋の日暮れぬ
いづこなれ山間の刈田にテント張り泊まりて去りぬ何を記さむ
雨しとと関所のありて夕べ越ゆ江戸の道のりここより思ふ
この世に生きるは謎や一夜の宿出会いし遊女も記憶なるかな

黒に映ゆ松本城や藤の花
黒に映ゆ松本城や雪の嶺

旅の記憶も30年くらいすぎるとあやふやになる、なぜ日本海を自転車で旅したとてしどうして日本海まで行って帰ってきたのかわからなくなった
第一そこまで自転車で行くとしたら相当に遠い
覚えているのは良寛の五合庵により野積(のづみ)の民宿に泊まり寺泊に来て出雲崎に来て日本海にそい行った
その時秋であり満月がでていた、それは確かに前に記録して短歌にしていたがどこに記録したか不明になった、おそらくワープロに記録していたのだろう
それでワープロから呼び出されなくなり古いワープロを東京まで行って買うほかないとなった
人間はともかく忘れやすいのである、まず旅しても十年などすぐすぎる
すると記憶はあいまいになる


出雲崎側に「お春瞽女之碑」がある
車で走ると気づかず通り過ぎてしまう

昭和22年の冬
出雲崎の門付けの帰り
盲目のお春さんは吹雪に埋もれ帰らぬ人となった


瞽女宿では、そろそろ瞽女の来る頃、布団を干したりして準備をします。暖かい布団や風呂、心づくしの食事、気兼ねなく過ごせる部屋などが用意されます。もちろん、皆無料です。瞽女宿の人だけでなく、村の人も手伝いにきます。村中で瞽女を暖かく迎えてくれるんです。

杉本家の初代親方マセは江戸時代の生まれで幼い時に天然痘にかかって片目が潰れ、顔中にあばたが残り、「お前はその顔ではいいとこへ嫁に行かれん。いっそ瞽女になるか」と父親に諭されて丸山という親方の弟子になりました。




瞽女(ごぜ)というのも目が見えない女性である、とにかく江戸時代は眼病を患う人が多くそういう人がなった仕事である、それは栄養不足でそうなっていたのである
座頭などもそうである、0・8パーセントが眼病を患っていたとかなる
そもそも病気は江戸時代には直せないのである
天然痘もそうである、そうした伝染病も多いから病気を直せずに死ぬ人が多かったのである
でもそういう人に江戸時代の人は情がありなさけをかけていたのである
瞽女(ごぜ)宿まで用意して歓待していたのである
それは芸を楽しむということがあったにしろやはり福祉的なものもあったとなる
ただ座頭などは金貸しで特権が幕府から与えられて大金持ちになっていた人もいた
これも現代でも福祉の名で施設とかもうけている人もいるから同じだと思った
人間のやることは時代が変わっても似ているのである
とにかく瞽女(ごぜ)の碑を見たのは記憶している

それから直江津に一夜泊まったことも記憶している
そしてわからないのは糸魚川まで行って親不知に行って市振に行ったことは記憶しているただ糸魚川を越えて市振に着いたということは地図をみてふりかえりそうだったのかとなる、市振は越後と越中の境であった、そこで関所があった
市振とは振り出すという意味であり境を越えて振り出す振り出しの地としてつけられた
江戸時代は境を越えることは外国に行くとにていたのである

それで芭蕉の句の「一家に遊女もねたり萩と月」は市振で詠まれたのである

今日は親しらず・子しらず・犬もどり・駒返し*など云北国一の難所を越て、つかれ侍れば、枕引よせて寐たるに、一間隔て面の方に、若き女の声二人計ときこゆ*。年老たるおのこの声も交て物語するをきけば、越後の国新潟と云所の遊女成し*。伊勢参宮するとて、此関までおのこの送りて、あすは古郷にかへす文したゝめて、はかなき言伝などしやる也。白浪のよする汀に身をはふらかし、あまのこの世をあさましう下りて*、定めなき契、日々の業因、いかにつたなしと、物云をきくきく寐入て、あした旅立に、我々にむかひて、「行衛しらぬ旅路のうさ、あまり覚束なう悲しく侍れば、見えがくれにも御跡をしたひ侍ん。衣の上の御情に大慈のめぐみをたれて結縁せさせ給へ*」と、泪を落す

これは遊女だが瞽女ともにているのである
そこに漁港があり船が泊まっていることは覚えていたがそこに松があったことは記憶していない、松は何か人間に見えるのである、松によるというとき人間に寄るという感じになるのだ、だから日本人にとっては松は一番親しいものなのである、松は友にも見えるのである

旅路行く北陸道の松あわれ名残り惜しむや秋の陽没りぬ

こんなふうになる、日本海側の松はまた何か独特の風情があった

自転車の旅だと宿に泊まりにくい、そこでテントは不可欠だった、何か山の方に分け入って刈田の畔のような所でテントを張り寝たことを覚えている
そこがどこかは不明になった、何かを記すにももう記憶をたどるしかない、それもとぎれとぎれになって不明になった

そして市振から富山の方に行ったのか?山の方に向かいそこに関所があった
加賀藩などがその関所を越えたとかある、あそこから江戸へは遠いと思った
ただその関所のことが不明になった、でも記録したものが見つかればまたこの文は編集しなおす

そしてなぜか松本城のことを今日テレビで見て思い出した
松本城からアルプスの雪の嶺が朝に映えていた
あそこには春に行った、秋にも行った、それで思い出して俳句を作った

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黒に映ゆ松本城や藤の花

黒に映ゆ松本城や雪の嶺

あの黒色が独特なのである、山国の城として黒があっているとなる

会津の城ももともと蒲生氏郷が作った七層の黒川城があった、この城は圧巻だった
まさに松本城ににたものだったのである
今の会津城にはあまり魅力を感じない、中は博物館のようにもなっている
それは新しく再建されたから歴史を感じないのである
新しく再建されるとそれは博物館のように見えるからだ
ただ松本城は当時の面影を残している、立地もいいのである

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七層の会津の黒川城

いづれにしろ思い出す旅というのも不思議である、それがインタ−ネットだとしやすいのである、情報がありそれをたどって記憶の旅ができるからだ
ただこれも実地にその場に行っていないかぎり活きたものとならない
そして地図を見ると何か記憶と一致しない、だから地理をわかるのは容易ではないのだ
冬は冬ごもりであり思い出す旅には向いている
じっとしていてストーブにあたたまり思い出す旅をするのである
だから私自身はもう旅に出たくないのである、これだけ旅をすればそうなる
もう飽きるほど旅したからである














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