2019年01月12日

冬日没る(大原の二つ峰)


冬日没る(大原の二つ峰)

                      
イノシシの猛進するや年明けぬ

冬日没る大原に見ゆ二つ峰

一本のすぐなる松の隠されて今日我がよりて冬の日暮れぬ

twinedmmmm123.jpg

twinedpeak11.jpg
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実際に見たのとは違う、もっと明確に二つの峰が高く見えるのである
やはり写真と現物は違うのである

matufuyu1.jpg

林の中にあった一本の松
これもこんなふうではなかった、もっと太い松だった

人間と自然の関係は何なのか?それは自然があるとしてそれを人間化することなのであるだから名前をつけること自体人間化したものなのである
名前がないとそれは自然のままだとなる

human identified mountain

human identified tree

human identified stone

とかなる、それで真野川上流の隠された石を老子石と名付けたのである
名付けることはまた意味をもたせることなのである

ただまだどこでも名前が付けられない山がいくらでもある、それはそこで生活している人でも認識していないのである
だから時代が変わりそこに生きる人がいてまた新しく自然が identifiedされるのである
そういう作業をしてきたのが自分だったとなる

要するにこの二つ峰に人間を見ているのである、人間を投影しているのである
それは夫婦に見えたり兄弟姉妹に見えたり祖父母に見えたりしてそういう名前がつく
人間化した山になるのである

これはtwined mountains でありtwined peaceともなる
それは常に人間には争いがある、だからこうして二つの峰が一体化している
夫婦でも離婚とか家族でも争いがある二つの峰が一体化して平和がある
それが自分自身の家族にも言えたからここに自分自身の感情が投影されてアイディンティティ化されているのである

大津皇子の遺体が二上山に移し葬られる時、姉の大伯皇女(おおくのひめみこ)が哀しみ悼んで詠んだ歌が2首ある。

うつそみの 人にある我れや明日よりは 二上山を 弟背(いろせ)と我が見む

@「現世の人である私は、明日から二上山をわが弟の君であると見て偲ぶだろう」

この山は見れば大きい山はいかにも姉であり小さい山は弟に見えるのである

はるけくも飛鳥に来たり二上山我が望みて秋の陽没りぬ

これは確かに飛鳥から見えたのである、結構奈良では目立つ山だったのである
あの時は名古屋から奈良まで自転車で行ったから遠かった
ただあの山は飛鳥からも見えたのである

寺内から深野の方向に行く所の山道をマウンテンバイクで上った
そしたらイノシシがものすごい勢いで走った、二頭いた
小型ではあった、丸森は大きなイノシシを見た、あれは怖かった
丸森辺りだと森が深いからあのような大きなイノシシがいるのかとなる

とにかくイノシシ年であり年男になっているのが自分である
だから最後の猛進の年になるのか?正直旅行とかはしたくなくなった
疲れるのである、近間ならいいが遠くとか人ごみに入るから嫌になる
やはり老後は旅より家でゆっくりしたいとなる、だから老後は家が大事になると思った
家が過ごしやすいとか田舎いいとなる

ただこの辺の山は土とるためにいたるところ山が削られているのである
それが景観を悪くしているのである、それだけの工事がこの辺であったためである
それからソーラーパネルも増えすぎたのである
ただマウンテンバイクで行けるところが近間であると面白いとはなる
飯館にはそうした道がありバイクで行けるとかあったから行ってもいいが疲れるとなる
ただ今度の電動のマウンテンバイクでは行動範囲が広がったことは確かである


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