明星(2019新年の挨拶)
(青年よ師を偶像を殺し龍となれ!)
雲破り初日輝く年男
新年や月と明星輝きて遠くに一つ星きらめきぬ
新年や明けゆく空の清しかな月光り明星輝く幸のあれかし
新年や龍とならむや若者の未来をつぶす大人なるかな
雲さえぎ初日の出待つあせらずに光に欲す時を待つべし
三日月が月の脇に光っていた、それは金星なのか木星なのか?
さらにかなたに一直線の中に小さい星もきらめいていた
今年はめずらしく早く起きた
今年も幸先良いのか?明星は幸運の星なのか?
何かが新しく開ける年なのか?また新しき人が出る年なのか?
私が俳句とか短歌をはじめたのは20代でありそれも25頃からはじめたのである
その時はただ575とか言葉を並べるだけだった
だから結社に入ったが俳句関係は全く認められなかった
ただアララギの結社に入って選ばれて何首かのった
だからここでは認められたが他では認められない
その後どこの結社も入っていない独自で精進してきたのである
だから今でも評価はされていないのである
ただ結社というのはそこに師匠がいてそれがかえってつっかえ棒になる
才能をそぐことになる、そもそも師というのは危険な存在のである
自分より優れたものを出ることを拒むからである
若い人は確かに未熟だけでそれはただ芽であるだけにすぎないからである
その芽があとで大きく花開くことがあるのだ
それはどこの分野でもそうである、日本人は師を異常に崇拝する、人間と一体化するというとき日本的な特徴なのである
だから師と同じくなるなという人は自らを否定する師はいないのである
結局人間は一番自分がかわいいからである
自分がどこまでも崇められたいとしているからである
それでカルト教団では師が神の如くなりそれと一体化して崇拝する
それが偶像崇拝になるのだ、この偶像崇拝ほど怖いものはない
なぜなら一番神が嫌うことだからである
神は妬む神なのである、これは本当なのである
聖書でも信仰とは偶像崇拝の戦いだったからである
それは命がけだったのである、師の呪縛から離れられないからである
子弟不二などという思想はそれはもう師のコピーであり人間として生きることはなくなる
ロボットなのである、人間はなんらかで生まれとか環境とか時代も違うから個性的なるのが神が定めたことなのである
まず俳句とか短歌の師が多すぎるのである、それらは小粒なのだけど師として崇められたいだけなのである
だから師とは否定すべきものである、どうしても人は時代の子でありまたその生い立ちとか性格とかいろいろ違っているから十年も違うと世代の差が生まれてその下の人が理解できなくなるのである
だからその若者がどういう未来があり未来を築くのかはわからないのである
それで必ず師は若者を卑くくみる、つまららないものとみるのである
それは未来というものがわからないしその時代が離れるからそうなる
とにかく私自身の場合は何か才能が開花したのは60過ぎてさらにもう死に近くなってからだった
なぜか不思議なのだけどいろいろなことが理解できる、深く理解できる
今まで理解できないことが深く理解できる、自分なりに理解できる
これが本当に不思議に思う、若い時でもその後なかなか本を読んでも理解できないが今は即座に理解できるのである、そこから自分なりの見解をもつことができる
大器晩成というけども別に自分は大器の片鱗もない、平凡な人間だった
むしろ普通より劣っていたし才能だってなかったのである
啄木とかみればわかる、なぜあんなに若くして才能があったということに驚くからである天才というはそうういものなのである
とにかく師は危険である、師に追従するだけになり自分の個性も才能も殺されるのである
臨済録の「仏や祖師に出逢ったら直ちに殺せ 、父母や親族に出逢っても殺せ」
これは確かに過激なのだけど祖師とか親でもその才能を伸ばさせたりしないのである
むしろ親のいいなりになることを望むし師にしてももしその弟子が大きなものになることを望む人はないないのである、まずは俳句とか短歌の師を崇めていたりしたらもうその未来は小さくされる、そんな人たちは小粒だからである
結社で威張りたいだけなのである
そして自分の不思議は特殊な環境にあり学校とか会社とか集団生活になじめない性格だった、でも会社に入らなくてもその後自由に生活できたし自由に旅もできたし自由が与えられていたのである、それで咎められない環境にあったのである
そのことも自分の形成に大きく影響したのくである
こういうことはなかなかありえないのである、それでマイナスの面もあったが何かそれが自分を大きくしたということは確かである
私は禅宗にひかれる、真宗とか日蓮宗は庶民的でも盲目的である、奴隷的になりやすいのである、なぜそういう宗教がこれほど普及したのかというとそもそも鎌倉時代とか字を読めない人が多かったからである
そうなればただ題目をあげていれば救われるというのが一番わかりやすいから普及したのである
それはキリスト教でもそもそも字が読めないから絵で説いていたとかなっていた
聖書を読めた人は司祭だげだったとなればそうなるからだ、禅宗は何か個の自立をうながすものであり大衆化しなかったのである
禅宗はだから今の時代にも適合する、自然に習う時禅宗が参考にされるし禅的なものが自然と一体化することなのである
雲水とかでも旅する人でもそうなったことでもわかる、だから日本の宗教では禅宗が普遍的なものとなる
世界的にもそうだったように禅宗は世界的にも普遍的な要素をもっていたからである
それは師を否定する、偶像崇拝を否定するということで普遍性をもったのである
俳句とか短歌は日本の伝統であるがどうしても自分でもそこに限界を感じるから詩の分野にも広げている、とても表現しきれないからである
ともかくいかなる師も危険な存在であり偶像になる危険性がある
もちろん師に一時的に学ぶことは必要である、ただそれが神のようになり永続化することはありえないのである
常に時代は変わりそれとともに人間も形成される
インタ−ネットが生まれればそれによって新しいものが生まれる、技術改革で今までにないものが生まれるからである、インタ−ネットを駆使できる時代とできない時代には才能と関係なく大きな影響を受けるからである
つまりこうしてプログでも自由に表現できることは今までありえないことだったからである、必ず表現するにしても本だった勝手に出せないし雑誌にものせられないしテレビなどでも必ず許可がなければ出れないし意見も言えないのである
それはメデアが力をもっていたからである、インタ−ネットは本当にただメデアであり媒介するものにすぎないのである、そこに誰かの会社の許可がなければできないとはならないからだ
だから表現の幅が広がったのである、インタ−ネットにも問題があるにしろ自分にとってはいいものだったとなる
青年よあせることなく最後に龍となり天に飛翔せよ!
ということでまた今年も書きつづけますのでよろしくお願いします
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