2018年12月06日

南相馬市高倉に移り住んだ人が地元の歴史に興味をもつ (詳細に調べているので感心する)


南相馬市高倉に移り住んだ人が地元の歴史に興味をもつ

(詳細に調べているので感心する)

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南相馬市で古い地区となると古代から歴史を継続して刻んできたのは桜古墳と泉官衙(カンガ)跡から高平地区である
古代からそこに歴史が記されてきたからである
泉かんがの前には桜井古墳があるからわかりやすい、そこも高平地区一帯である
そうればとうしてそうなったのか?
その場所が新田川があり海に近く住みやすい場所として最初に開けたとなる

それと製鉄遺跡のある真野郷の遺跡まで道まで作られて管理されていた
新田川も運河になっていて物資が運ばれていた、古代ではそこは湿地帯であり行き来ができないから川を利用した
桜井古墳は立地的に見れば高台であり場所として最適だった
だから今回の津波はそこまで来ていても被害はなかった

最近駅で会った外部から来た人の研究では泉長者から鎌倉時代から南北朝時代までつながりある地帯として調べている
外から来た人でそんなに興味をもてるのも不思議である
地元に住んでいるといつも目にするものがあるからそこで興味をもつようになる
私の場合は墓に興味があり地元の歴史に興味をもった
墓とは文書ではない、何か本当の人間がここに埋もれているとも見るからである

ここまで地元の歴史に興味をもつ人はないだろう、それも詳細に調べている
そういうところが学者的なのである、私の場合は何か芸術的に見るから学者的な研究となっていないことがある
この人は文書からも学者的に詳細に調べて指摘しているからそういう素質があるとなる

例えば南北朝のことで代々の相馬藩主殿様のことで南朝についたものと北朝についたものとして年号に注目している
南朝の年号と北朝の年号が違っていたのである、それは天皇が二人になり日本全国が分裂したからである

足利尊氏は、光厳上皇の院政の下、光明天皇を擁立し、11 月 7 日には建武式目けんむしきもくを定め、幕府の基本方針を示した。
一方、後醍醐は 12 月に京を脱出して吉野へ逃れ、光明天皇に譲った三種の神器は偽物であり、自らが持っているものが本物であると称した。ここに天皇家は、光明天皇の北朝と後醍醐天皇の南朝に分裂し、1392 年(元中 9 年/明徳 3 年)に両王朝が合一するまでの時代を「南北朝時代」と呼ぶ。 

尊氏は条件を容れて南朝に降伏して綸旨を得る。この和睦に従って南朝の勅使が入京し、11月7日北朝の崇光天皇や皇太子直仁親王は廃され、関白二条良基らも更迭される。また、年号も北朝の「観応2年」が廃されて南朝の「正平6年」に統一される。これを「正平一統」と呼ぶ(後に足利義満により再度図られた南北朝統一である「明徳の和約」を、正平一統に合わせて「元中一統」と呼ぶことがある。)
年号も北朝の「観応2年」が廃されて南朝の「正平6年」に統一される。これを「正平一統」と呼ぶ

親胤は 建武2(1335)−延元2(1357)で南朝の年号であり
胤頼は 延元2(1357)−貞治6(1367)で貞治は北朝の年号である

相馬藩も南北朝になり二つに分かれたともなる

高平地区にあった寛徳寺に胤平を中心に城が築かれとどまる南朝方で活躍するが1347に北朝方に下る


北畠親房が准后に任じられて17年ぶりに京都に帰還、続いて北朝の光厳・光明・崇光の3人の上皇と皇太子直仁親王を拉致、本拠の賀名生へ移された。後村上天皇は行宮を賀名生から河内国東条(河南町)、摂津国住吉(大阪市住吉区)、
さらに山城国男山八幡(京都府八幡市の石清水八幡宮)へ移した。近江へ逃れた義詮は、近江の佐々木道誉、四国の細川顕氏、美濃の土岐頼康、播磨の赤松氏らに、足利直義派だった山名時氏や斯波高経らの協力も得て布陣を整え、3月15日京都へ戻って奪還、さらに21日には後村上天皇の仮御所のある男山八幡を包囲し、物流を遮断して兵糧攻めにした


石清水八幡宮は、足利将軍家が特に篤く信仰したお宮ですが、同宮は足利氏だけではなく八幡太郎の名で知られる源義家や、鎌倉幕府を開いた源頼朝、それに徳川将軍家など、歴代の源氏一門から、源氏の氏神、武門(弓矢)の神として篤く崇敬されてきました。

鹿島の男山八幡神社はここから由来している、京都に男山という山がありそれが基である

ともかく南北朝の混乱は全国的であり60年続いた、その傷跡は今でも残りつづいているこの辺では霊山炎上で落ち延びた只野氏とかがいて考察した
その子孫がここには本当に多いのである、野馬追いの旗にも南北朝時代の侍の子孫がいて旗印にしているからわかる
野馬追いの旗印は鎌倉時代からさらに古代までさかのぼるからわかりにくいのである

その人は高倉に住んでいる、その高倉の由来はもともとは鷹であり高倉になったという
あそこにある神社の由来を聞いたがわからなかった、その人は明治以降なのか昭和なのか開墾に入った人だったかもしれない
あそこの神社の屋根の紋は9曜の紋だが亀甲紋もあるという、あの神社は綿津見神社である、この綿津見はこの辺だけに使われる文字だという、やたらこの辺ではこの綿津見神社が多いのか謎である

綿津見神社 (小倉南区) - 福岡県北九州市小倉南区石田鎮座
綿津見神社 (古賀市) - 福岡県古賀市庄鎮座
綿津見神社 (東区) - 福岡県福岡市東区三苫鎮座
綿津見神社 (糟屋郡) - 福岡県糟屋郡新宮町湊鎮座
綿津美神社 - 福岡県北九州市小倉北区萩崎町鎮座   

福岡県福岡市東区志賀島の志賀海神社を総本社とする。綿津見三神は阿曇氏の祖神とされ関わりが深い

なぜ福岡県にこの漢字をあてているのか?つまりなんらか九州に関係あるのかとなる
他にもいろいろ当て字しているがこれだけ同じ当て字しているのは関連があるとなる
とにかくこの辺ではこの字をあてた神社が本当に多いのである
それはなぜなのかとなりその関連性を知りたいとなる
神社とは神が勝手に来るのではない、必ず人が来て人がもたらすからである
つまり福岡県と関係してこの神がもたらされたのかともなる
それにしてもこの神社がこれほど多いのはそれだけこの神社に関係した人が多いということである
だから何か因果があると思うのが自然なのである
それがどういう経路でもたらされたのか知りたいとなるがこれもむずかしい
でもこの神社のある場所を特定して地図化してみたら本当に多いから何なのだろうとなる 

長野県にも安曇族とか海人族が入ってきて船の祭りをしていたのを見ている、安曇とは九州から来た海人族だからである、ここにこの字が由来していることはやはりなんらかその由来を語っているのか?

これと対象的なものとして飯館村の佐須にある山津見神社がある、これは綿津見神社と対象的でありこの辺にしかないのかもしれない、インタ-ネットの検索では出てこない
なぜか松川浦付近に山津見という地名がある
これは綿津見神社が多いからそれに刺激されていうとおかしいが山の神としてそう名付けたのかもしれない、綿津見神社があり次に山津見神社が生まれともなるからだ

いづれにしろこの人の指摘していることは要点をついているのである
だから外部から来てここまで地元の歴史に興味をもつというのはめずらしいと思った
地元に住んでいると別に歴史に興味をもたなくても自ずと持つようになる
でも外部から来たらなかなかここまでは興味をもつ人はない、だから不思議だとなる
ただ震災以後は外部から入ってきている人が増えた
鹿島ではおそらく2割くらい外部から入ってきた人たちかもしれない
駅で会うのは外部から来た人達が多いからである




ここで調べた人は名前も知らない、ただそれなりにこれだけ詳細に調べるということはその人の努力があり勝手に紹介できないということがあるかもしれない
その人が発見したものがあるから著作権が生まれる
それで勝手にここにのせていいのかとまどったが一応返答ということでのせた
高平地区は南相馬市の歴史を語る場所であることは間違いない
あの五輪塔がそれを語っているのである


posted by 老鶯 at 23:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)
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