2018年12月06日

平和と幸福は何もしないで与えられることはない (常に平和と幸福は努力して作り上げてゆかないとない)


平和と幸福は何もしないで与えられることはない

(常に平和と幸福は努力して作り上げてゆかないとない)

平和とはなんだろうと思う、平和平和と叫んでも平和が来るのか?
そもそも平和とは何なのか?
平和の逆を見るといい、極端なのは戦争状態であり飢餓状態とか災害で破壊されたとか事故で苦しむとかいろいろある
平和でない状態は常に歴史的にも個々人でもあった
個々人でも病気とか必ずあるからだ、死もあるし逃れられないのだ

最高にに平和を感じる時は逆に戦争で苦しんでいるとき戦争がないときとかなのである
殺し合いしているのは最悪だからである、だから戦争がない状態にもどったというとき
幸福感を人一倍感じる、それは個々人でも病期が直った時一番感じる
その時生きられんだとかつくづくそれだけで幸福を感じる

平和とか幸福はそこにただあり与えられているものではなかった
何か自分は恵まれていて家族に与えられている存在だった
その家族が介護になり死別がありその時自分は今度は家族のために尽くさねばならなかった、自分が今度は与える側になった
でも何かを与えるということも喜びになる、苦しみもあるが与えることは喜びがともなうただ相手から与えられるだけの存在に平和と幸福はない

平和とか幸福とかはただ与えられるだけでは得られない、人間はそういうふうにできている、何かをただ与えられるだけでは平和も幸福もありえない存在なのだ
幸福になるためにはやはり勉強も必要になる
勉強するということは幸福になるためなのである
ただ受験勉強とはかそうではなかった、勉強するのは人間は才能があったとしても必ず勉強せねばならない、才能を開発しないかぎり天才でない限り生まれないのだ

そして勉強していれば雑学でもなんでも最後に花開くことがある
それも勉強していなかったらありえないのである
ただ何でも努力も勉強もしないで与えられることは人間にはないのである
絵の才能が全然ないのに抽象画でもパソコンのソフトで描けたとなればそれなりにただ見ているよりはそこに自らで作ったという満足感がある
これもやはり才能を開発するという努力の結果で幸福が生まれたとなる

人間という存在はそもそも何か何もしなくて与えられない、平和でも幸福でもそうである家族だってそれも互いに努力するなかで築かれてゆくのであり結婚したときは愛がないというのもわかる、恋愛は愛ではないというのもわかる
愛は結婚して共に生活して子供を育てるという過程を経て家族も作られる
それはただ何もしなくて家族が生まれるわけではなかった
家族はそうして長い間生活してその中で苦労を共にして作られてゆく
家族はもともと与えられるものとも違っていたのである
子供の時は与えられる存在だが大人になれば常に努力して作っていかねば何事成ることはないのである

例えば農業でも何かを実らせるには本当にむずかしい、様々な試行錯誤必要である
そこで練馬大根とか・・・大根とか下仁田葱とか地名がついたブランド品が生まれる
それは特産品となる売れる、それがてきるまでは苦労している
それはどこでもそうである、それで特産品となったときそこに努力の成果がありその土地に幸福をもたらしたのである
それはあらゆる分野でそうである、平和とか幸福は作り出すものでありただ何もしないで与えられるものではなかった

だから復興というときこれもそうなのである、それは不幸な状態でありそこに再び平和と幸福を作ることが要請されている、それでもし復興が成ったらその喜びは何倍もの平和と幸福感を感じる、でも何もしなければもう何も生まれない
ただ荒廃してゆくだけだとなりそこには平和も幸福も生まれないのである
今の所はそうなっている、何か打つ手がないとなり町や村は捨てられたという感じになる
私の住んでいる所は幸いに避難区域でない、かえって外部からの人が集まり増えてにぎやかになったということがある、いろいろな施設も生まれたとかもある
だから避難区域との差が大きすぎるということがある
ただ人間はつくづく何もしなかったら平和も幸福も与えられないようにできている
戦争とは破壊でありだからそこからは平和とか幸福は生まれない
それでも破壊した後に建設がはじまりその時あらためて平和と幸福を感じるのである
それは前より一層平和と幸福を感じる

幸福は何か与えられる得たいということがある、でも人間の幸福は与えることにある
何かを与える時平和と幸福を感じる、神は与えるだけの存在だから幸福だとなる
人間にあらゆるものを与えるのが神だからである
ただ神は人に感謝を求めるが後は一切なにも求めない、人間は何か与えたとてしても必ず見返りを望む、そして恩着せたり俺は与えたからとその何倍を要求する
それは遂に脅迫にすらなる、無償で与える人は一人もいないのである
神は無償で与えている、でもそれを実らせるには人間でも農業に絶えない努力が必要になっているのである

でも一番実りの幸福を感じているのはそうして努力して実らせた人なのである
その時まさに平和と幸福が作り上げられたからである
無人駅でボランティアのまねごとしてもそうである
みんな自動化しているから別に人はいらないとなるがやはり人がそこに手を加えて作り出すものがある、まず機械とかAIだけで平和と幸福は作り出せない
なぜならあくまでも人間が生きるのであり機械とかはAIでも生きるということがないからである、それは人間が生きるということが先にあって活かされるのである
あくまでも人間が生きることであり人間が主人であることには変わりないからである

だから無人駅でも人間はいらないとか他でも機械があるから人間はいらないとはならない必ず人間が必要であり人間が主人公なのである
そもそも機械とAIは何か望むということもない、平和とか幸福とか愛とかも望まない
だから機械だと兵器となり武器と化して人を殺しても何も感じないのである
機械とかはあくまでも人間の道具でしかないのである
だから機械でもAIでも平和とか幸福をもたらすものとは必ずしもならない、それはあくまでも人間の道具だからである、使い方を誤ればやはり不幸をもたらし平和は破壊されるのである

いづれにしろ人間は与えられるだけの存在だと平和も幸福も感じない
それで退職した老人が不幸になりやすいのは何か社会的活動して与えるものがなくなるからである、ただ一日なにすることもなくテレビを見ていたり暇つぶしにギャンブルばかりしていたらそこに幸福は生まれないのである
そういう何も与えない人は膨大に増える時社会自体が不幸になる
それが高齢化の問題だともなっているのである  

人間の信頼関係でも簡単に作れない、俺には金があるからなんでもできる、人も自由に雇い働かせられるとかともならない
家に入れる人は相当に信頼関係がないとできない、金だけではひとを頼むことができないものだった
その人にとって金だけを得ることだとすると危険になるからだ
それじ十年もその家で働いていたとかなると信用できるとなる、でもそれだけの年月が必要であり時間が必要になる
そういうことで金だけで平和とか幸福は得られないのである
それが互いにでも作り上げてゆくものだからそうなっている、研究者に金をやるから一大発明しろといってもできないというときもそうである、研究するのは地道な努力も必要でありいくら金を積んでも一朝一夕にできるものはないからである

ともかく人間の逆説は「悲しむ者は幸いなり」ということもある、なぜ悲しむ人が幸いなのか?
そこに人間の根源的な問いがある、この世は悲しむことなしでありえない、悲しむことによって人間の深いものを理解するからだ
悲しむ者が幸いだという時、悲しむ後に本当の人間の平和と幸福を知るからそうなる
だからこの辺の復興でもそうなのである、悲しむ状態だけだとそこからまた幸いが平和がもどるということがあるということを示ししている、ただそう自覚することはむずかしい、ただ不満だけがあるともなっているのである

タグ:平和と幸福
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