2018年11月21日

冬の蝶(家の価値は思い出が残っていること―母の介護の思い出)


冬の蝶(家の価値は思い出が残っていること―母の介護の思い出)


厨なる曇り硝子に冬の蝶


晩菊のとりどり咲きて一所あたたかき冬の日のさし安らぐ

60年母の厨(くりや)にありにしを我も立ちつつ冬に入るかな

冬の月部屋をのぞきぬこの部屋に母を介護しぬ思い出なるかな   


家族がみんな死んでから何か不思議である、何か姉が認知症になってから不思議なことがつづく、家族がみんな死んでから不思議がつづく
人間はやはり他人が経験するのと自分自身が経験することは違うのである
家族だったみんな違っているからである

母はおとなしい女性であり裏方だった、母の一生は不幸だった、実家でも父親が事業に失敗して母親が病気になり継母が家に入ってきて苦労した
継母にいじめられたのである、子供の時でも不幸だったのである
結局やはり両親でもこのように子供を幸福にするとはならないのである
つまり両親に家族に恵まれないと本当に損だと思った

その後も東京で結婚したが夫が事故で死んだ、そして後妻に来たのが自分の家だがここでも幸福とはならなかった
女中のように使われただけだとなっていた、それを見ているからわかる
ただ母のことをあまり思ったことはない
死んでから不思議だけど母のことを思うようになった
人間は死んでからこうして思うことがある

今は厨に台所にいつも自分が立っている、すると何か母はそうして60年とかこの家にいて厨にいた、食事を出していたのである
そのことが何か自分が介護して食事を出したりまた死んでからも家事を料理をしている
厨に死んでからもずっと立っている
それで母を思うようになった、母は目立たない女性だったけど60年の歳月は長い
そうして日々食事を出していてくれたのである
生きている時は何も感謝の気持ちもなかったのである
自分自身が厨に立ち家事をして料理するようになって感じたのである

女性の仕事は家事でも目立たない、だから父親のように評価されない
でも縁の下の力持ちとして女性はある
ただ苦労が多かったからそうなるとどうしても歪んだ性格になる
母はそういう面があった、一切何か楽しむことがない、ただ働くことであり庭を作った時そんなものいらないとか強情に言っていたのである
そして庭に豆をまいたりしていた、食料にするためである
何かそうして苦労しすぎていこじになっていたのである
人間はあまりに苦労が多いと心も歪んでくる
でもそれほど母は歪んだものとはならなかった
忍耐強い女性だった、でも母は社会性がないから一人ではとても家を維持できなかった
自分の家の場合は特殊だが姉と母がいて家が保てたのである

だから特殊な家族だったとなる
ともかく家というのはやはりこうして死んでも死んだ人が存在しつづけることがある
なぜなら60年とか家に長くいたからである
家と人間が一体化しているのである、それで嫁とは女であり家であり一体化したものなのである、女性の場合は家事だけをする女性も前は多かったから余計にそうなっていた
それで死んでも家にありつづける、他ではその人が死んだらありつづける場は少ないだろう
男だったら会社にいるのが長いとしても死んでもそこにありつづけるということはないだろう、どこでも退職したりしたら時間がたつとともに忘れられる
でも長く働いた場なのだから退職したりして一切会社との関係が切れるのは淋しいとなる退職しても一緒に働いた人がそこにいたということを記憶されればなお会社で生きているともなるがそういうのはまれだろう

厨は曇り硝子であり外が見えない、でも朝に蝶が飛ぶのを見た
まさに母は冬の蝶だった、夏の蝶ではない、ひっそりと生きてひっそりと死んだ
ただ眠るように死にたいとはいつも言っていた
その願いだけはかなえらたようだ、ただ病院に入院して一か月で死んだ
死ぬ瞬間はわからなかった、病院に来たとき死んでいたのである

でも母は病院で死ぬ前の一週間前くらいまでポータブルトイレを利用していた
オムツをすることもなく死んだのである、オムツをしたのは病院での一か月だけだったのである、だから介護するにも死ぬにも楽だったとなる
苦労の人生だったが最後は楽だったなと思う
まず介護するにしてもオムツとかなると過酷になる
そうなると自分はルーズでありさらに苦しい状態に追い込まれた

それでも今になるとそうして介護して良かったとか思い出になるのも不思議である
早く死んでくれとも思っていたが人間は死ぬとみんな後悔している
もっと良くしてやれば後悔する
それは死んだらもう二度と会えないからである
ただ死者は思い出のなかで生きているだけになる
その思い出も介護で冷たくされたとかなるとなかなか思い出すのも後悔するから嫌になるそこに介護のむずかしい問題がある、介護と死は連続しているからである

いづれにしろ人は死ぬとその一生をたどることになる
家族だったら身近だからその一生をたどる、すると死んだ人がよみがえってくるのだ
死者はどこにあるのかととういと実際は墓とかにはいない、人間は死ぬと灰となりなにもなくなる
でもこうして残された人が思い出したり語ったりすると生きてくる
こうして死んだ人の一生をたどったり家でここにいたなとか思う時なお死者は生きているのである

母はなほ面影として我が家にたたずむものや北風唸る

面影として残るとしてもその場がないと面影として浮かばないのである
それが女性の場合は母の場合は家にあったとなる
恋とは乞う(こう)から来ているという、つまり恋とは必ずしも男女間の恋愛ではない
死者をこうことが一番深刻なのである
なぜなら人は死んだら永遠に会えないからである
そしたらもう一度会いたいと思うようになる、それが恋(こいーこう)だったのである
このことが一番切実だからそうなったのである





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