冬の日の新地の詩
(芸術は平和でないとありえない−新地に平和がもどった)
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新地の冬の日
冬田に紺一色の海
今日沖に船見えず
点々と林に隠れて家
落葉踏み古き社や
宝暦と一つの碑を見ゆ
芦枯れて小沼に鴨数羽
満ちは曲がりまた曲がり
気ままに趣くままに行く
ゆくりなく木の葉は散りぬ
溜池広く悠々と鴨の群れ
交わりてここに安らぐ
点々と林に隠れて家
蔵一つ扇の紋や農家古り
木守柿や日のさしぬ
ここは伊達藩と偲ぶかも
森の小径はまたここに分かれ
誘われるように方向を変えて行く
冬の蝶二羽ほど舞いよぎり
冬に入るもあたたきかな
新地駅新装成りぬ
津波の記憶も徐々に薄れゆく
新しい喫茶店一つ
窓より見れば葱畑見えて
良くみれば昼の月でてあり
二両の電車の行くを見て
我はここに安らけく長くあるかな
悲しみ苦しみの比
そもいつしか癒されむ
我はここにし安らぎぬ
アジュールという喫茶店が駅前にあったけどこの名前は碧色の石だった
碧の青は石とあるようにこのような石から名付けられた
海の青とはまた違ったものだった
海をイメージしてこの名前をつけたのか?
でも喫茶店にいたのはばあちゃんだった、ちょっと体も曲がっているような気がした
そこに集まっていたのも老人だった、何かの会合で10人くらい集まって騒いでいたのである
何かこれでもわかる、とにかくどこでも老人が多いのである
喫茶店には不似合いだったような気もする
私は喫茶店とかで休みそこで何か書き物をすることが良くあった
でも喫茶店相当に減少した、コーヒーとか飲み物だけではふっていけない時代になったからである
やはり喫茶店は場所がいいと価値が生まれる
あそこからすぐ近くに電車が行くのが見える、鉄道好きにとっていいながめである
だから写真をとりたくなる、そこであそこの喫茶店は価値が出てくるとなるかもしれない
駅をおりるとあそこは通る道だからである
俳句とか短歌から詩になりやすい、俳句を詩にした
一連の俳句をつないで詩にしたとなる
ともかく平和がないと芸術もない、この辺は津波原発事故で平和が消失した
こういうとき芸術もありえなくなる、戦争している時、芸術もない
ただ荒廃している情景だけでありそこに芸術があっても異常事態の芸術である
そんな生きるか死ぬかとなっていたらそれは本来の芸術ではありえない
だから未だに小高とか浪江とか避難区域には平和がないのである
そこで芸術がどうかなど考えることもできない
ただなんとか復興して欲しいというだけである
芸術もなんらかたしになるにしてもやはりそもそも町が復興しなければ芸術もない
浪江だったら大堀焼きの村は芸術の村だったが消失した
そこはゴーストタウンになってしまった
新地は駅を中心にした町作りで前より良くなった
駅がまるで大都会並みの駅になった
あのような駅があんな小さな駅にどこにもないからである
まずエレベーターがあるのがいい、地下道もありそこにエレベーターがある
そして駅前広場があり駐車場もあり今温泉施設とか他にも大きな建物を建てている
あのようにすると人は集まる、他から鉄道利用して集まる
つまりそこに相乗効果が生まれるのである
鉄道だけではどうしても今や限界があるからだ
新地は林が多くその小径を行くのがいい、散策にはいい、ただ自転車だと電動自転車でないと鹿狼山には上れないのが残念である
前は上る気力があったけど今はない、ただタクシーで折り畳み自転車で2000円だとする行けるなと思った
この辺は地域でも違った感じをもつ、浪江は川二つあり高瀬川渓谷があったから特徴があった、ただ原町とか小高とか鹿島とかはあまり特徴がない
相馬市は一応城下町だがそれもそれほどのものではない
外から来るときはやはり目立つものがないと印象に残らないのである
地元だったら細部を見るが外から来る人ははじめてなのだからわからない
原町の桜井古墳などは目立つからいいのである
鹿島の真野に万葉の歌が残されているとしても何か遺跡がないから魅力に欠ける
学問的には興味あるのだけど普通はそこまで調べない、だから目立つものがあるといいのである、城があったとしても城がなくなっていたらなかなかイメージできないことも確かなのである、ただ一方で廃墟に魅力を感じるのは世の中の無常を感じるからである
新しい城にするとそこが博物館のように見える、そこで歴史の興亡があったとか見えなくなることもあるのだ
芸術の秋は過ぎたが何か今日は寒いがあたたかったから冬とは思えなかった
ともかく新地は散策するにはいい場所である