木の葉散る
(原町の道の駅でもみんなスマホ見ていた)
我一人墓を守るや菊に雨
晩菊をさして一人や墓守る
我が町の隠町にそ落葉かな
原町に行く間に散れる木の葉かな
道の駅原町に来て落葉かな
一軒の空家や松に紅葉映ゆ
何か墓守る人も必要なのか?墓の前を私は毎日買い物で通っている、だから自然と墓に毎日手を合わせるともなる、その墓がすぐ近くなので墓と一緒に暮らしているともなるのも不思議である
何か最後の仕事が墓守りとなることがあるのかと思った
何か今年の季節は変である、今日は原町まで自転車で行く、その間に木の葉が散る、
これも自転車で行くから季節を感じるのである
車だったら風とか何か季節を感じにくいのである
ただ逆に車なしの生活ができるということは車社会ではぜいたくなのである
なぜなら車がなかったら仕事もできない、免許がなかったら就職もできない時代だからである、私の場合は車がなくても仕事もないから自転車でまにわあせてきたとなる
風流は寒きものなりというときもそうである
自然を感じるにはあまりにも便利だと感じないのである
俳句は写生である、原町の道の駅に落葉している、それはただ写生である
でも同じような俳句があるとして原町だということで同じものはないとなる
原町の道の駅には今日も行った、そしたらみんな9割の人もスマホを手にとって見ていたそれも老人でもそうである、60以上でもスマホを結構している
車で来ているから外部の人だと地理とかホテルとかわからないからそうしている
何か簡単に聞くわけにもいかないからそうなっている
でも変な光景だと見た、まずスマホを見ている人には話しかけられない
たまたま一人だけ案内の本をもっいてる人の所で座り話しかけた
その人もスマホを持っているというから10中9人はスマホを見ていた
歩いてスマホをしている、立ってスマホしている、これも異様な風景ではないか?
旅だとスマホばかり見ていると外の景色も目に入らないかもしれない、するとスマホばかりみて記憶に残らないともなる、旅だと必ずしもすぐに移動するから余計に記憶に残りにくいのである、スマホに集中する分、辺りのことが記憶に残りにくくなる
車にスマホとなるともうそこで木の葉が散っているなとか季節すら感じないかもしれないスマホは字が小さいし狭いから疲れる、パソコンの画面を私自身がいつもみているが画面が広いからそれほど目が疲れないのである
スマホばかりみている人には語りかけられない、駅でもいつもスマホを見ている
ただ私自身も旅して人と語ることはほとんどなかったから批判はできない
機械に頼るというときなぜそうなるのか?
旅してきて何か聞くにしてもそんな都合良く聞ける人がいないからである
道を聞くにしても正確に地元の人だった教えないのである
だからかえってスマホの方がいいとなってしまうのである
ただその便利さが旅をしても人との交流をなくすことがある
旅は道連れとしてスマホばかり見ていたらそういうこともなくなる
何が機械でも便利なものは人間的なものを奪うのである
第一車自体がすでに外部を閉ざす空間になっているからだ
だから車はただ移動するだけで風流は感じない、なぜなら風を感じないからである
本当にスマホのみすぎである、それが異様に感じないものもまた何か異様なのである
現代にはそういうことが結構ある、異様なんだけど異様と思わないのである
それが文明化された人間だとなっているのである