2018年11月05日

150年過ぎて見直される明治維新 (国家神道化などその弊害も大きかった)


150年過ぎて見直される明治維新

(国家神道化などその弊害も大きかった)

過度な中央主権

過度な国家神道

過激な薩摩長州の倒幕

過激なアジア侵略思想


明治維新が150年過ぎて見直されている、歴史は現代を今生きている人から見る
すると時代によって見方が変わる
150年の間に日本は大きく変化した、70年前に太平洋戦争があり日本人が3百万人死んだ、そのことが明治維新の見方を変えてしまう
なぜそんな犠牲を出してまで戦争しなければならなかったのか?
それを問うとき明治維新にまでさかのぼり見直すことになる

ここにあげた四つは一つになっている、それは対外的に外国の対応から過激思想が生まれた、外国勢力に対抗するためにはどうしても中央集権国家を作らねばならなかった
それで吉田松陰とか西郷隆盛にも朝鮮征服の思想があった
明治維新からすでにアジアへの進出思想があった
それは太平洋戦争まで継続していたのである、歴史は継続である、江戸時代の継続があって明治維新があり突然全く違ったものとして外来のものを全面的に受け入れることはできない、日本には変革できる土壌があってできた
だから明治維新でも実際は幕臣が官僚となり支えたとされる
幕臣とかが今もちあげられるのもそのためである

薩摩長州は明治維新のビジョンをもっていなかった、幕府を倒す倒幕を先決したのであるだから実際は薩摩長州の倒幕が先であり何か革命思想があったわけではない
四民平等という思想もない、それは後で生まれた思想であり薩摩長州が幕府に代わって権力を握ることだった、だからクーデーターだったという見方が生まれる
そしてテロが盛んにあったからまさに吉田松陰はテロリストにすぎなかったとなる

そして過度の国家神道化して過度の中央集権になった、それは外国勢力に対抗するためになった、ナショナリズムというものではなかった、なぜならナショナリズムとなるとナショナルは国民でありその時国民は存在しないからだ
士農工商の農工商は全く政治に関与していない、なんの発言もできない
国民という意識もない、ただ藩に所属して命令に従うというだけである

だから薩摩長州のクーデータ−だというときまさに武士同士の政権争いが戦争に発展したとなる、庶民はかかわりないものだったのである
会津のヤーヤー一揆では農民の日ごろからの不満が爆発した
ヨ−ロッパだったら城は城壁で囲まれてその中に市民がいて一体である
だから他国のものが攻めてきたら城壁の中の人も一緒に戦う
でなければ殺されるとなるから戦うのである
でも日本だったら会津のことでわかるように城が燃えようがそこで侍が戦おうがどっちが勝とうが関係ないのである、ただ税を軽くしてほしいということだけである
そこで会津藩が薩摩長州に代わっても同じだから税が安くなればいいと思うだけだったのである
ヨ−ロッパとは歴史が違うからこんなことが起きたのである
そこでブルジュアとか生まれたがそれはブルクから城から生まれた言葉である
それは裕福な人だとなるがもともと城と城壁で囲まれた市民は一体だったからである

いづれにしろ日本はヨ−ロッパのような市民の都市とかがない、封建制はにていても市民というものがいなかったのである、そこに市民の自治もなかった
村がは市民という大きな共同体ではないからである
その相違があり明治維新は武士同士の下級武士の革命だというときまた薩摩長州のクーデーターだったというとき歴史の相違でもそうなる
フランス革命とかなると庶民も参加した革命だから違っている
明治維新は武士同士の争いであり政権をとる戦国時代のような権力争いだったともなる

そこに日本的なものとして天皇がもちあげられ国家神道が上から強力な圧力でおしつけられ廃藩置県も天皇というものがあってできたと大久保が言うのはそのためである
日本の歴史は天皇でまとまる社会だったからである
それで天皇が二人出たとき南北朝の争いが60年とかつづいたのである
ただそのことのマイナス面としてあまりにも国家神道が協力に権力によっておしつけられた、そのことで弊害が大きかった
廃仏毀釈とかあったり思想統一が国家神道で成された
その国家の権力によってもともとのその土地土地の社なども格付けされたり国家神道化されたのである、それが地名にも影響していたのである
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伊東ひとみ. 地名の謎を解く―隠された「日本の古層」―(新潮選書) 

地名でもそもそもその土地から生まれたものだから国家権力によって好字二字にせよというのはその文化の破壊だったのである
地名とは文化でもある、土地を耕すというcultureである、そうした地域の文化を破壊することはすでに古代でも権力によって行われていたのである。
国家とかはそもそも地域地域にあった国(くに)とは違う、権力的なものがかかわる体制である
だから国家と民族が違うというとき国家は権力によって構成されたものであり民族は地域地域のクニから形成されたのである
だから国の手形が訛りだというときそうである、明治以降に協力な中央集権があり言葉も標準語にされたのである   

国家権力となると日本の戦争でもナショナリズムだとして民族の伝統を鼓舞するもののように見えるが中央主権国家は地域の文化を破壊するのである
それで正一位稲荷とかでもはおかしいと思う、正一位というのはまるで神様によってそれも日本の貴族によって位を神様に授けるとなるから変なのである、地域地域の神とか社はそういうものとは違っていたからである、それは国家権力とはかかわらない地域の神である、ただ神にも権力がかかわることである、権力によって神が歪められたのが人類の歴史でもあった

国家神道とか中央集権の弊害は大きかった、なぜならその強力な富国強兵が国家神道の名のもとに行われたからである
それが太平洋戦争に継続されたからである、だから明治維新の見方はその戦争を経験した結果変わることになった
また太平洋戦争自体が日本では総括されていていのも問題である
それは明治維新からはじまっていたのである

戦争に負けた結果として明治維新の薩摩長州閥が断罪される

こうなったのは戦争に負けたからである、負けたからそんな戦争をなぜしたのか?
それを問うようになった、そして薩摩長州のクーデーターとか否定的見解が普通に出るようになった
戦前だったらそういうことはなかったからである、明治維新は常に肯定的に見られていたらである
また天皇批判は許されなかったからである
明治維新から日清戦争からロシアの戦争で勝ったことで日本は奢りになった、それは日本は神の国だとかなり太平洋戦争で敗北して3百万人が死んで70年過ぎてその戦争は何だったのかと歴史を見直すようになったのである
戦死者は神社に慰霊の碑や忠魂の碑としてある、それは国家神道とかかわったものであり神社本来のありかたとは違っている
なぜなら日本にある無数の神社とか社はその成り立ちが国家神道とはかかわっていないからである

なぜ東北列藩が同盟して薩摩長州軍と戦わねばならなかったのか?
それは東北列藩が会津に薩摩長州に謝罪をしろと願いを出したが断れたという
でももともと東北列藩では戦うことを最初から決めていた藩もある
東北列藩は数が多くても武器の差で敗北した、また戦争になれていないということでも敗北した
また急なことでまとまりもなくて敗北した、その勢いがあまりにも違っていたのである
ただではなぜもう江戸が無血開城されたのに東北を攻める必要があったのか?
それは徳川幕府の幕臣が実際明治維新後に政府を支えたということでもまた実は明治維新がなくても徳川幕府は開国して対応できたということとも通じる

薩摩長州は権力を争奪するクーデーターだからそうなった、最初から革命の思想などない、倒幕が目的であり権力をにぎり政治の実権をとることである
そういうことは政治では民主党がそうだったようにまずは政権奪取だとあり何かをすること政策もなくてもそうなることが多い
それで民主党でも政権をとったが何もできずに終わったのである
それは公明とか創価とかもそうであり共産党でも実はそうなのである
一見そういう人たちには権力欲がないように見えてもそうではない、それはどこの革命でも権力を奪取したとき中国のように幹部が莫大な富をもつようになると同じなのである
だから何か革命思想があって明治維新があったわけではない、ただその後思わぬ方向に展開したのである

だから今になると西郷とか明治維新の立役者がそんなに評価できるのか?
そういう疑問が150年過ぎて表にでてきた、そして司馬遼太郎の小説に左右されすぎたのである
小説であまりにも明治維新がもちあげられすぎたのである、本当は薩摩長州のクーデーターでありテロリストにすぎなかったともなるテロリストには思想はない、相手が金持ちなら殺して金をとる、また命令された人から金をもらうというだけで殺す
つまり権力をとるために殺すというのがテロリストなのである
だから一時共産党でもテロリストとなりオウムもテロリスト集団になったし創価でも仏教平和主義など言っていたが実は民主主義社会でなければテロリストになる、ファシズム団体になる

なぜならそういう人たちは権力をとれば金になるとか地位にありつくとかしかないからである
官僚が天下りして得している、俺たちもあのようになりたいということしかないのである
薩摩長州は実はそういう侍の組織団体だったともなる
長州の奇兵隊などもそうして成りあがりたい人たちだった、下級武士や庶民もいて実際に伊藤博文は庶民の出でも首相になったからである
ただあまりにも持ち上げられていたのはなぜなのか?
それはふはり歴史は勝者の歴史であり薩摩長州の政治勢力が阿部首相のように継続して政治の中枢にあったためだともなる

ただでは徳川幕府がそれほどほめられるものなのか?
実は廃藩置県でも地方の藩の財政は困窮していて廃藩置県で借金を中央政府が肩代わりしてくれるということで賛成していたのである
つまり徳川幕府もその体制の維持が限界にきていたのである
第一大奥などあるのはいかに徳川幕府が遅れているかを証明していた
それはオスマントルコの後宮政治とにていたのである
そういうところから政治に女性がかかわり腐敗してくる
だから徳川幕府はもう自壊しつつあったのである、だからあんな簡単に薩摩長州のクーデーターでもろくも崩壊したのである

会津だけが最後の徳川の幕臣としして悲壮に戦い犠牲になったのである
徳川幕府はもう維持できない状態になっていたのである
だからといって薩摩長州が別に革命思想とかあるわけでもない、クーデーターであったが成り行きでいろいろな改革が成されたとなる
いづれにしろ薩摩長州を異常に評価する時代は終わった、それは大平洋戦争を起こし日本が大敗北して3百万人もの犠牲者を出したからこそ今になり見直されるようになったのであるか。

posted by 老鶯 at 20:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)
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