2018年11月02日

只野−小林姓をたどると・・・・ (姓から探る相馬地方の郷土史)


只野−小林姓をたどると・・・・

(姓から探る相馬地方の郷土史)


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これだけ地域に限定して多い只野の姓


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奥州二本松領の多田野村において、御霊を祀ったのも長尾氏だった。
只野油井などの苗字に分かれて今も栄えている

ここに只野油井がでてくる。油井という地名は鎌倉にあり油井を姓にする人もでてくる。不思議なのは岩代国安達郡油井村がある、これはどういう経過で名前となったのか?
只野油井という姓は多田野村からでている、名前はなぜ油井なのか?それは鎌倉の地からでていることは間違いない

『一薪之儀者村之内百姓持山分ニ而取申候 不足之時分ハ二本松領多田野村と申所江
  毎年野手銭百文宛相済取来申候』 について、
 四里以上も隔たった所まで薪を採りに行った。もっと近くで都合できなかったのだろうか?
 按ずるに、更に百年余前の蒲生時代に、
横川、安原、阿久津、南小泉、北小泉の各村と多田野村は共に蒲生家客将細野藤敦の給地であった。
軍需物資として輸送された名残りかと考える。

(二本松領の検地−元禄)

前に只野氏のことを考察した、とにかく南相馬市に只野氏−但野氏が多いのである
だからこの出自は明らかである、間違いやすいが多田の姓と多田野の姓は別である
多田野−只野は明確に南相馬市鹿島に一番多いのである
多田野村から只野の姓が生まれた、日本では必ず地名から姓が生まれている
ただ地名と姓が一体化してわかりにくくなる、相馬市でも南相馬市でも相馬氏一族が移住して土地の名前になった、ただ全国的には姓が土地の名となることはまれである
必ず…村がありそこが姓の発祥の地なのである
日本人のコミニュティは村にあり村が一族化している、村の紐帯が強いのである

多田野村の位置がわかりにくかった、郡山市から実は会津藩と白河藩とかの境にあった
今の湖南地域は会津藩であり白河藩が重なる地域でこれもわかりにくいが地図を見るとわかりやすくなる、地歴を知ることが大事である
会津は感覚的に湖南地域とかではなく遠い地域だとイメージするからだ
この湖南地域は私も自転車で行ったが魅力ある場所である
ただあの辺が多田野村があるということがイメージしにくい、でもその辺を通ったことがある
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葛西富夫著『続 会津の歴史』に収録されいている会津藩領地の地図(概略図)を眺めながら、その理由を考えていました。

白河藩と会津藩は隣同士だった、会津藩の領域は広い、それで一時白河地域を治めていたのは会津は支配した蒲生氏郷だったことでもわかる

いづれにしろ地名から歴史を探ったりまた姓が歴史を郷土史を探ることは基本である
どうして相馬氏に荒姓が多いのかとたずねる人がいた
それはこの辺は古代から渡来人が来ていたためである、製鉄の技術集団のツノガノアラシトが大和王権が成立する前に来ていた、そのツノガノアラシトのアラが荒姓になったからである、ここまで姓をさかのぼることができる
相馬藩で姓から探る歴史としては南相馬市の鹿島区だと岩松氏が有名である
鎌倉から来た岩松氏一族は家臣によって惨殺されてその子孫は残らなかった
それで相馬藩内に岩松という姓がないことがまさに歴史の証拠なのである
それから相馬藩の飢饉のとき移住してきた越中からの移民の子孫が相馬藩内に三分の一もいる、だから本当に越中からの移民が多い、古賀とかがそうである、他にもいろいろある
それも歴史の姓として分類できる
その辺はわかりやすいのである、墓を見れば真宗系統であり題目が記されているからわかりやすいのである
この移住した姓として葛尾村(かつろう)の松本氏は有名である
ここも三分の一が松本氏であり信州から今の長野県から移住した人たちが多いということである、こういうふうにある村には一つの姓が多いということはそれだけその村がその一族関係の親戚なのである、だから驚いたのは常磐線の末続駅があるがそこは新妻氏一族の村だったのである、なぜなら墓地をみたら9割が新妻氏だったからである

今回自分のルーツを探ると小林という姓がどうしてついたのか?
葛尾村から私の父親が双葉の新山の酒屋の丁稚奉公して働いたことは書いた
でも小林という姓にどうしてなったのか?
それはまず武家の出ではないから先祖をたどると曾祖父は浪江の津島の近くの柏原であり名前しか記されていない、姓はなかった、その当時江戸時代は農民などでも職人でも姓がないのが普通だった,ただ江戸時代末期に農民でも名字帯刀とか許されて姓をもつ人が増えた、それで近くでも墓地をみると姓を記した墓を見ることができる、それは明らかに農民の墓なのである、明治になったとき庶民も姓をもつことができるようになった
それで姓が膨大に増えた、でも適当に姓を名乗ったのか?
何か謂れがあって名乗ったのか不明になる
只野氏はその歴史をたどることかできるが小林となるとわからない
第一小林という姓は全国的に多いからである
地名でも小林というのは多い、それで不思議なのはこの地名なのである

福島県郡山市逢瀬町多田野小林(字)

多田野村にも小林という地名がある、会津にもある、小林という地名は多い、だから小林が多いのもわかる、でもなぜここに小林なのか?
多田野村−只野氏と関係あるのか?
だから同級生の只野氏と良く土手の道で話して奇妙になる
自分も只野氏の一族の子孫なのとか冗談でもなる
その同級生は日吉神社のお浜下りの祭りでおつづら馬という重要な役をになう
それは南北朝の争いで逃れた時に由来する祭りである
つづらに荷物入れて馬で運ぶ役である
その只野氏は南北朝からの姓であり古い由緒ある家だとなる
だから何か頼母子講で親になっていた資料があったとか大学の人が調査に来たというのはそのためである

上野国緑野郡小林村(群馬県藤岡市小林)発祥とする一族
鎌倉御家人として多く登場し、元歴2年の元旦には源頼朝が鶴岡八幡宮に奉納する神馬を引いた従者に、小林次郎重弘が見える

ここが小林の発祥の地らしい、そこはここから遠くはないから移住してきたともなる
この頃は馬が大事であり馬にかかわる故事が多いからこうなった
馬というのは歴史では欠かせないものだが車時代になり忘れられたのである

posted by 老鶯 at 11:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)
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