2018年10月21日

「文系学部廃止の衝撃」吉田俊哉を読む (大学とは学問とは何なのか)


「文系学部廃止の衝撃」吉田俊哉を読む

(大学とは学問とは何なのか)

大学とは何なのか?戦前はエリート養成の大学であり何か大学とは何かとか悩む必要がなかった、そこでは自ずとエリートとして見られているし自覚が芽生えた
そして寮歌などう歌いエリートとしての青春を謳歌したのである

 デカンショデカンショで半年暮らす アヨイヨイ 

 あとの半年ねて暮らす ヨーオイ ヨーオイ デッカンショ

こんな生活が大学ではできた、今でも文系は勉強しない,何か勉強することが大学では嫌われていたというのも不思議である
大学でとまどうのはまず授業に出なくてもいいということだった
高校だと毎日嫌でも授業に出るから勉強嫌いになった、勉強するのは自主的にするのではないただ試験だとか受験のためである、何か興味のためでもなかった
せめて興味のためだったら良かったそういう余裕もないのである
だから何か高校までは自主的に考えて何かを追求することがなかった

そもそも学問のはじまりは二つある、学ぶとはまねることである、暗記することでもあるこの二つが高校までは中心になる、そしてあとは試験のためであり受験勉強なのである
だから純粋に学ぶということがない、でももともと学問は問うということがはじまりである、なぜか?この疑問から始まっている
そこに学問のはじまりがありその疑問を解決するために学問があり学ぶのである
だからギリシャからはじまった西洋の学問は文明は最初は理系とか文系とかの区別はない哲学であった、世界の成り立ちを物質でもなんでも探求する哲学になる
そこから今の原子論がうまれた、自然を構成する分割できないもの原子がアトムから自然は成り立っているとかなる
それを哲学的に考察して科学へと発展していったのである

ともかく人間は何するにしても疑問がとめどもなく無数にある、作物を育てるのにも種をまいても良く育たないということが普通にある、するどなぜなのか?
その疑問が必ず生じてくる、それは肥料だとか水の問題とかある、果物が育つのはかえって福島ならそこは扇状地で砂礫であり水はけがいいから桃がうまいものができたとかなるその土壌に適した作物が必ずありそれがブランド品になる
自然のどういう作用で果物でも野菜でもとれるのかわかる
その土地とか風土と密接に関係しているのである
それは学問として発達すれば農学となり化学とも関係してくる
それは理系だと今はなる、理系はどちらかというと実学なのである

ピタゴラスの定理だとどうしても屋根を作るために必要なものとして解かねばならない難問だった、それが解かれたことにより屋根を作るのが容易になったのである
ギリシャにはそうして学問の発祥の地としてあった
実用としてその謎を解くということが学問のはじまりである
それは理系だと今ではなる、ただ不思議なのは建築に興味がある、では建築でもただ機能的に現代的な高層ビルを建てる技術はある、それだけ発展した技術はある

でもそこにピラミッドやギリシャの神殿やゴシックの大聖堂やモスクでも何か精神性を感じるのかというと感じない、だからシュペングラーが数から分析して高度な数学として文明の建築を見た、その精神性を付与するとなると何かそこには文系の眼が必要になる
そもそせ宗教的建造物はそうした精神性がないとしたらただ摩天楼のように高いだけなら意味がない、そこは祈りの空間として意味をもてっいるからである
ただ大きいというだけただ高いというだけの建築には意味がない、精神性がない、ナチスの時にやたら大きな建物が建てられたという時精神性がないからそうなった
ただ大きいだけでは意味がない、その建築が作られるのにも人間の精神性が付与されてはじめて魂を入れたとなる

そもそも学問のはじまりは深刻な疑問に答えることだった
そして最も深刻な疑問はなぜ人間が死ぬのか?
このことが一番の疑問でありそれに答えるものとして宗教も生まれる
なぜ病気になるのかということでもそれに答えていたのは宗教である
結局加持祈祷するほかないから小さな地区でも村でも必ず山伏が法印がいたのである
しかし本当は人間の最大の問題は人間が死ぬということである
その最大の問いに答えるもでなければ宗教もありえない、その答えを出したのはキリストだけだったとなる、永遠の命は人間に宿る、人間は死ない御霊が与えられている
それが信仰の基になったのである

だから大学はもともと修道院とか寺が学問の場であり求道心がある人たちが集まった場所である、大学は中世では神学と法学と医学しかない、法学となると最古の法典としてハムラビ法典がありローマ法がある、西洋の学問が法から成り立つというとき聖書でも信仰は神との契約だというときその契約は法律用語である
日本人に法になじみにくいが仏教でも寺は求道の場であり修行の場だから同じたったのである

そもそも寺子屋があったとしてそこで実業を教えていた、読み書きそろばんを教えていた
それは寺というのがもともと修行の場であり宗教施設である
そこから派生して実業の寺小屋が生まれた
ヨ−ロッパでも修道院が修行の場でありまた様々な実業の場としてもあった、パン作りとか葡萄酒を作るとか菓子作りもして有名な修道院もあった、日本では沢庵和尚となれば沢庵を発明したからである

そもそも大学とは何なのか?
これがわからなくなった、起源をたどれば宗教から派生したものとしてもろもろの学問があり元は神学が主な教科だった
だから大学というのは医学があるとしたらそれは実業としてあった、でも神学となると実業ではない
大学が現代では実業を身につけるものとしてある時それは理系になる、工学系とかでは機械を作るとけであり農学系だと農業技術を学ぶ所であり医学系だと化学とかなる
それが理系であり理系は社会に役にたつとなり文系はいらないとなる、でも大学とかはもともと宗教から派生したものだから実業とは違うものだった
もし大学は実業だけの場だったら職人のように訓練すればいい場所となる、その職につくための訓練をする場だとなる
大学というとき大きく学ぶだからそうした特定された専門の技術を習得する場だけではない、人間として人格を作るとかある
そうなると幅広い教養とか文学などでも学ぶ、そういう場所が大学だったとなる

実際に大学というと仏教でもキリスト教でも宗教系が多いのでもわかる、大学は依然として宗教から派生したものとしての名残を残しているのである
大学とは何か?それは「人間を作る場所」だともなる
何か専門の実業だけではない人間として広く学ぶ場であり人格を作る場所である、だからそこに遊戯も必要でありスポーツも必要であり様々なクラブも必要でありそこで幅広い人間を養成することである、だから大学は人生とか社会全般のことを考える場所でもある、専門技術を習得するだけではない、そのために自由時間が与えられている
ただ自分の場合はカルト教団に入ったから奇妙だけどそこは宗教として求道の場所だったが全く違っていたのである

いづれにしろ大学と高校はあまりにも違いすぎるのである
自由時間がふんだんに与えられているがそれにとまどうのであるそれで変な方向に行く人もでてくる
大学が遊戯の場だというとき本当に遊びの場となってしまう人もいる、毎日麻雀していたり何か怠惰になり遊びほうける場所にもなる、そういう時間を浪費する場にもなる
それで大学は特に文系はそうなるから無駄だとされる
理系は専門技術の習得があり就職もしやすいが文系は社会に出ても何らそうした技術を習得していないから役にたたないとなるのだ
そして不思議なのは大学で遊ぶことを覚えるとまともな職業人になりにくくなる
授業にも出ない、時間にはルーズになる、毎日時間通りに会社に行き勤めるということがしにくくなる
でも実際は団塊の世代でも学生運動した人たちもみんな就職して企業戦士になったのである
自分のようにアウトローとかになった人は本当にまれである
今ならニートとか普通にいるがその時はいない、そんな人いないから誰も話題にもしなかったのである
だから自分にはそのことが理解できないのである

今のようにニートとかもっといても良かったと思う、そんなにみんなが猛烈な企業戦士とかになる必要がなかったと思う
大学で自由な遊びを覚えた人がみんなそうなることが理解できなかったのである
ただそこには時代があり就職もみんなできたしそういう時代だったとなる
そうして正規のルートからはずれた人は本当にまれだった、みんなその時は正社員になれて会社に入れば安泰だとなっていたからである、でもほとんどの人は企業戦士になる必要はなかったと今では思う
そもそも大学は職業人だけではない何か自由人を作る場所でもあったからだ
だからみんな猛烈な企業戦士になったということはもしかしたら大学の趣旨に反するものだったともなる
もっと自由人を出す所が大学だったともなるからだ
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