秋の夜(仙台まで電車で行く)
ふるさとの墓を守るや柿なりぬ
秋晴れや金華山見え電車行く
東口通りの広く秋の風
新書のページをめくり秋となる
待ち合わせ電車のとまり秋の夜
単線や秋の夜長の待ち合わせ
虫の音や新地にとまる昔かな
月光る切符を入れて無人駅
我が家に帰るもあわれ残る虫
墓を守のが勤めだということもある、誰か知らない人が花をいけたりなぜか大きな梨が置いてありそれが烏に食われていた、誰かが梨をあげたのか?
まず死んでからでもそうして何か上げる人は死んだ人を思っているということである
人間は死ぬともう何の義理もなくなるから関係しないからである
だから何か死んでから墓でも花をさしたり何か供え物をする人は死んだ人を思っているいる人でありありがたいとなる
今日は約半年ぶりで仙台に行った、新地駅から金華山が見えた、秋晴れで見えた
ただ金華山があそこに見えると意識していなと小さいから見えない
新地駅からは晴れたら金華山が見えると意識しているから実際に見えたのである
仙台の東口とかを歩いた、通りはあそこは広い、秋の風がそよぐ
今日は本当は登米の方に行こうとしたが何かめんどうなので行けなかった
電車で行けないのところはめんどうになる、だから電車で行けない所は行っていないところがある、それで自転車でその行けない所に行ったがやはり自転車でも行けない所がある本当は北上川を見たかったのだができなかった
あそこは車でないと行きにくい場所だったのである
だから仙台で駅前をぶらついて買い物して終わりだった
仙台というと新しい本にふれて読むのが新鮮に感じた、しかし今は本は書店で買わない
本というのはその数が膨大なのである、大きな書店でも置いてない本が膨大なのである
古本でも膨大である、だからこんなに本があったということに今になると驚いている
それで本を前より買っている、古本だと安いからである
自分の関心があるのを集めるのにもいい、そういう点では恵まれている時代である
だから書店でも本は売れないことがわかる、あるところは本の売り場極端に縮小していた
丸善が前のように多いが必ずしも書店で必要なものは探せない
郷土史などはインタ−ネットの方が詳しいのである
だから本だけに頼る時代は終わった,書店には一部しか置いてないことがわかたからだ
そして必ずしも目立つものがいいものではない、前はそうして宣伝して売れたが今は必ずしも本は売れない
ネットでの情報もあり本とか雑誌に頼る時代は終わったのである
帰りは4回くらい待ち合わせがあった、前はそんなになかった、どうも6時から7時ころで通勤の人が帰るからなのか4階は多いと思った、単線だからそうなる
鹿島駅についたら月が光っていた
切符は買って切符入れに入れた、やはりごまかすということは良心にはじる
ただ真面目な人が多いと思った、無人駅でもごまかす人はほとんどいない
日本人はそういう点では真面目である
家に帰っても待つ人はいない、なにか家がなくなっているのではないかと不安になる
それは津波以後村ごとなくなったりしたからである
家族もみんな死んだから何か人でも家でもなくなるのではないかという不安がある
旅はずっとしていないけどなにかその気力もなくなったのだけど
また旅したいなとは思う、登米などは行っていないし北上川を見たいということもあるからだ、本当は北上川は自転車で川に沿って走ればいい、そうすれば旅になる
ただそれだけの気力がなくなった、だからいつまでも旅もできるものではなかったのである
それにしても新地駅でいつも遅い時間に帰り3分待ちあわせでとまった
その時ホームに出て歩いた、すると虫が鳴いていた
それが記憶していたが今はそれが7年半も過ぎると昔になったなと思う
あの時は海の方に家並みがあった、海側に近かった
今は海側は真っ暗になっている、もう十年も過ぎたら昔になる
ただ記憶だけになるのである