秋の蝶(待つ時間が人間らしさを演出)
柿は古いものでありコスモスは新しいものである
夕日さし柿にコスモス映えにけり
ともなる
クリック拡大しないとはっきりしない
復興や実りに朝飛ぶ鳩の群れ
前畑に鶏頭や朝の仕事かな
玄関に待てば飛びきぬ秋の蝶
秋の蝶今日もここに遊ぶかな
今日もまた駅に待つ人ありにしも秋となりにし鹿島駅かな
復興とは実りがあって復興を感じる、その米を食べるとかではない、実りというのが稲穂が黄金色にそまる、そのことで感じる、米など今どこからでも入ってくる
でももし地元に実りがなければ実りを感じないのではないか?
矛盾しているのはでは地元の米を買っているかというと買っていないということがある
この辺の米は原発事故以後売れないから飼料米になっているのである
玄関で待っている、人が来るわけでもないが一人待っていると秋の蝶が飛んできた
この何か待つ時間が人間らしい時間なのである
駅ではいつも誰かが待っている、その待つ時間が人間らしさを演出する
何か高速とかのSAにはそういう感覚がない、ただ一時たちよるだけだとなる
駅には何かそうして人間的なものが演出される場所なのである
鉄道は120年とかの歴史がここであるとするとそれだけの歴史を刻んでいるのが駅であり鉄道だから違っている
そこには人間の情がのりうつっているからだ
津波の来た所が草原化した、時々草刈ってもまた茂ってくる、そこに蝶が集まっていた
そこに毎日行っている、蝶が遊んでいるだけだとなる
草原化すると蝶などは増える、遊び場にいいとなる
それでは困るのだが蝶にとってはいいとなるのかもしれない
何か最近AIのことをしきりに言う、人間の仕事がなくなる、人間はみんな芸術家になるとか遊びようになるとか言うのも不思議である
実際趣味で野菜作りしている人は別にそれで生活するためではない
第一売ることもできない、まともに野菜が収穫もできない、とれるのはわずかである
でも自分は肥料代とか道具代とかいろいろ払っている
そしてもらったのはキュウリ数本だけだった
でも何か自分は野菜作りとか農業にもともと興味があり話聞くのが面白いとなり応援している、それから荒地がこの辺では多くなったのでまずいと思い応援している
ただ正直そこに投資しても何の見返りもない、でも荒地にするよりはいいし
その女性にとっては草取りとか嫌でも生きがいともなっている
その人から畑をとると何が残るのか?金の問題は別にしてその人のできることは畑で野菜作りすることだとなる
前畑に鶏頭が映えてそこで朝仕事する人がいる、田舎では見慣れた光景である
それは自然とマッチしている、わざわざ遠くに通勤しているのは自然ではないのだ
すぐじき前が仕事の場だということは自然なのである
そこから食料をとれることは何か生活の充実感があるなと見る
いづれにしろここ十年は遠くに行かない、仙台にも一回行ったきりである
年取るとやはりなかなか遠くに行くのが億劫になるのだ
そうなると回りが大事になる、近間が大事になる
生活の場が近間になってしまうからである