2018年10月01日

インタ−ネットによる報道の変化 (マスコミはyoutubeとなり土着的個々の放送に変化)


インタ−ネットによる報道の変化

(マスコミはyoutubeとなり土着的個々の放送に変化)

報道機関(テレビ・ラジオ・新聞等)の報道は、国民が国の政治に関わるために重要な情報=『判断材料』を提供し、国民に政策の良し悪しを判断できる様にする=『知る権利』に奉仕する、ものである。(昭和44年最高裁見解)  

ここで問題なのは判断材料である、判断材料が提供されなければ判断しようがない
でもその判断材料を提供できるのは何になるのか?
判断材料になるものが提供されない、マスコミでは客観的判断材料をオブジェクトを提供するのではなくマスコミが勝手に判断して提供しているのである
判断するのはマスコミではなく国民のはずだがマスコミが判断してそれを報道している
マスコミの意図がありそれで報道番組を作っているのである
だからこそ安全神話はマスコミの報道機関も剰余な役割をにない作られたものである
莫大な800億とかの宣伝費が電事連から出ていたからである
その象徴的な出来事として福島の原発が爆発したとき東電ではマスコミを朝日新聞社の幹部を招待していたのである
こうなれば政府と官僚とかの意向のままにされる
客観的な判断材料も提供されない、判断材料はマスコミが選びマスコミが判断するのである

要するにマスコミによって国民は判断停止されている

例えば地元に住んでいると判断材料になるものが具体的に身近に利害関係もあるからわかるし関心の持ち方が違う,遠い所になるとどうしても関心がなくなる
それは身近に被害もないし利害関係もないからである
今回は身近な直接利害関係とか被害があったから地元だから追求してきた
その地元に必ず外部からマスコミが介入してくる
そこに問題が起きる、マスコミはNHKでもその会社の意図がありその意図を通すために報道番組を編集しているのである
だから原発避難民を受け入れた地元との対立があった、津波被害者との対立もあった
でも一方的に原発避難者側に立った報道をした、そういう意図で報道した
それは取材している人は上の人の命令でしていると言っていた
NHKでもそうして上の人が決めたことを報道する                  

ところが一記者が取材したとしてその記者が報道すればどうなるのか?

それはNHKの会社の意図とは違ったものになる
何かこういうことは会社組織とか今は労働団体とか宗教団体でもみんな組織に属して生活している
するとどうしても一会社員とか一会員とか一組合員として発言したり行動する
その団体組織が圧力団体となり権力をもっている、だから純粋に個人の発言はない
特にマスコミとかでもそこで発言する人は個人ではない、マスコミに意向にそうものとして発言しているしその意向に逆らうものは発言できないのである
だから一番いいのは主張もなにもないお笑い芸人が一番いいのである
だから武田邦彦氏などは個人として科学者として研究員として勤務したり外国でも指導したりそういうグローバルな体験をしていたりと知識の幅が広い
まず理系で文系の知識があれだけある人はまれである

それで言っていることは個人ではとても報道機関にはかなわない、訴訟するにしても個人は弱いから不利である相手にならないとなる団体組織だと必ず専任の弁護士などをかかえているし財力も違うから対抗できないのである
ただプログでこれを実行した人がいた、でもなかなか個人では記者クラブにも入れないし取材できなかったのである
東電の原発敷地内でも勝手には入れない、許可が必要である、マスコミだと許可をもらえて制限されても取材はできるが個人だったらお手上げであり何もできない、それが大きな問題なのである

インタ−ネットの報道はyoutubeでもかなり違っている、それは個々人がテレビ番組を作り放送できる、小集団でもできる、今までは新聞でもテレビでも巨大な報道機関であり報道すること自体不可能だったからである
youtubeとかなるとつまらないものでも見る人が多いなと思った
それはテレビというメデアが大衆でもわかりやすいからである
だから絵画などで絵の制作過程などを出している人は世界の人が見ている
百万とか見ているから驚く、世界規模になればそれだけの人がみる、絵は誰も見てもわかるから見るのである
インタ−ネットはグローバルになるメデアである、ただ言葉の障壁があるから読まないだけである、絵とか音楽はには言葉の障壁がないから百万とか見る人が出てくるのである

要するにテレビとかマスコミはこれまでは既得権として報道の権利を与えられていた
六局とか報道できなかったからである、それが今や無限大に報道局ができたともなる
一億総記者になりプログだと気軽に誰でも発信できる
ただyoutubeだと見る人が多くなる、それはテレビが視聴率を稼いでいたのと同じなのである、わかりやすいから見るのである
文章を読むとなると相当に頭を使うから疲れる、それでインタ−ネット時代になり短文しか読まないとかなったことも問題にされる
自分でも短い文ではいいたいことが言えない、プログだといくらでも書ける
すると内容的にも自分の言いたいことを言えるとなる
ただ読む方になるとこれは頭を使うから疲れるから嫌だとなる

でも何かインタ−ネットのメデアの違うのはこれは今までのようにマスコミで新聞とかテレビのようにただ与えられる、洗脳されるだけのメデアではない
発信するのに便利なメデアなのである、一方でそうなるとそれを受信する読むのには適していないともなる皮肉がある
読む方にしたら長いとか嫌がるものだったからである
だから何かインタ−ネットになってからは私は相手がどう思って読んでいるのかとか反応を見ない、ただ一方的に書きつづけているのである
そして文章にするということは考えて書くということでありそうなると様々な情報でも他者の経験や思想やものの見方とかを参考にする
自ら文章を書くということは自ら考えて文章を構築することになる
そういう創造的な作業であることに気づいた
本にしても前より読んでいる、アマゾンでボタン一つで買えるからである
古本だと安くなるからである、でも本を読むのは一冊でも厚いから読み切れないとなる
でも文章にして読んいでもらうとなると底の浅いありきたりのものを発言しても無益だとなる、読む読まれないにしろ内容あるものとして文章にして残したいということがある
それは自分自身で後でまた参考になるからである

ともかく報道するにしても判断材料が無数にある、するとどれを判断材料にしていいかもわからなくなる、だからマスコミが判断材料を選びマスコミが判断したものに従ったというだけにてっていたのである、だから世論は民衆が聴衆が作ったものではない
マスコミは世論を作ったのである、なぜならマスコミが判断材料を提供して判断して放送していたからである
それでこの辺で原発避難民とそれを受け入れた地元とか津波被害者間での複雑な対立になったがNHKでは原発避難者側につく報道をしたのである
マスコミは全般的にそうである、原発避難者を批判することはタブーになっていたのである、国民がみんな原発避難者側につくというのではなくマスコミがそうしたことで国民が味方だとなってしまった

だからこそ原発避難者を批判することは原発避難者からもみんなが応援しているのになぜ地元で応援しないのだ、補償金だって住む場所を奪われたのだから当然だとなりなんなのだと怒りにもなり南相馬市は小高と鹿島はいがみあい分断されたのである
そしてマスコミはNHKでもみんなが国民は原発避難者を応援する方に立つようにした
だから原発避難者はそうして国民は世論は味方している、それで非難することはできなくなった、たとえ毎日パチンコ屋通いでもギャンブルして遊んでいてもそうである
とにかく同情さるべきでありあとはなにかや言うなとなった

でも今になると地元からすると地元で融和しないとまずいことだったなと思う
なぜなら地元に生活していると争うと生きずらくなるしまた復興するにも障害になる
心が一致していないと復興のために一致協力できないからである
遠くから応援に来てくれた人たちボランティアでも一時的でありあとはや地元の残った人たちで復興したり協力して生活せざるをえていからである
それで川俣の山木屋とかでは大学の研究者が来ていたが今は一校だけにてったという

つまり最後は継続して生活するのは地元に残る人だから外から来る人は一時的だからあてにならないとなるのだ
だからこそ地元の融和が大事であり優先させるべきだったともなる
外部からの応援は一時的なものであり後に残って生活するのは地元の人たちである
その人たちがいがみあい対立していたら復興はできないとなるからだ
でも何か外部からの応援とかが目立ち内部で地元で一致して協力して復興のためにすることがあまりなかったのである
そのことが今になると協力できないとなり南相馬市の問題として残った

なぜなら外部からの応援もなくなりやがて後三年で援助も打ち切られるようになると南相馬市だけで復興をしなければならなくなる
その時この辺はかなり厳しい場所になると市長も指摘していたからだ
だかちまず第一にするべきことは地元の融和だったのである、いくら外部からの応援があってもそれは継続しないからである
そういう点で行政とか政治も働かなかったのである
ボランティアでも外部からの応援でもマスコミでも外部からの介入でありいつまでも関心をもっているわけではない
一時的なものであり土着的なものとして存在するものではないからだ
だから土着的な報道もこれから必要になると思った、土着的でないと見えないものがありまた継続するものがないからただテレビだと次々に事件が起きてあとはわからなくなる、でも地元で起きたことは事件でも継続している
プルトニウムの毒が二万年消えないとか継続した被害としてある
そういう被害の深刻さが地元に残るしカルマとして消えないものとなったのである



 マスコミはもう終わっている (これからは土着的地域に根ざす報道機関が必要)


報道とは何かー報道に土着したものの眼が必要 津波や原発事故で思い知らされた
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