2018年09月29日

雇うことは雇われるよりずっとむずかしい (雇われる人は雇う人の気持ちがわからない)


雇うことは雇われるよりずっとむずかしい

(雇われる人は雇う人の気持ちがわからない)


人を雇うことは、雇われる人と労働契約を締結することを意味します。
また、雇われる人からみると雇主と労働契約を締結することを意味します。
求人に応募して、採用が決まり、働くようになったならば、それは雇主と働く人の間で労働契約が締結されたことを意味します。
働く人から見るとあまり意識しないかもしれません。
しかし、雇う立場の方は、契約を意識しませんでしたでは全く通用しません。
人を雇う以上は、労働契約を締結するという意識をしっかり持たなければなりません。
契約関係にあるということはお互いに義務を負い、権利をもつことを意味します。

もしもクビだと言われても、応じる必要はありません。

労働法も解雇を簡単には認めていません。職を失うことが死活問題になることを法律も考慮しているのです。

ちなみに労働契約を使用者から解約するのが解雇、働き手から解約するのが辞職、話し合って解約するのが合意解約です。

最初に明確に労働契約していないと賃金もまともに払われなくても法的に訴えることができないのである
その人は食堂で働いたが賃金が支給されないが訴えることもできなかった、なぜなら労働契約を結んでいなかったからである
法律的に文書で契約していなと訴えることもできない、それは他のことでもそうである
法律的に訴えるにはそうした証拠が必ず必要になるからである
だから現代では必ず法律的に有効なものとして文書が領収書などが大事になるのである
人間は口約束だとごまかしたりできるからである



雇う人は、雇われる人のことを考えるべきだし、
雇われる人も、雇ってくれている人のことを考えるべき。

雇う、雇われるの関係性に
上下関係だとか主従関係ていうもが
まったく存在しないとは言わないけれど、
結局のところ、「人」と「人」だから
土台の部分は対等だよね、って思う。

でも、人を雇うって、想像以上に気力も体力もお金も必要なのは事実。


雇われている人にも、雇われている人なりの思いがあるのと同じで、
雇う側の人にも、その人なりの思いがある。

「雇われる人」にはこれが永遠に分からないのである。
 だから「雇う人」が語る言葉を全く理解しないことがある。

─それだけではない。
 永遠に愚痴を言い、座っているだけで、何もしない無為の時を過ごすのだ。

繰り返し言う。
人間には「雇う人」と「雇われる人」の二種類しかいない。

どちらを選ぶのかは個人の自由だ。
「雇う人」は時間を思いのままに出来るが、同時に大きな責任を負う。



人を雇うことがこれほど大変なことを意識しなかった
もともと自分には人を雇う資格もないし経験もないし世事に疎いからできないものだった、ただ家の事情があって人を一時間でも雇うようになったのである
最初に雇ったのは自分ではない、母が雇ったのである
シルバーセンターの関係で手伝ってもらったのでそのまま雇った
しかしシルバーセンターは信用されるようでできない
人物の調査をしていない、ただその時はシルバーセンターは介入していないから責任は自分の家にあった

どんなことでもささいなことでも雇うことは大変なことである
雇う方が雇われるより大変なことだと知った

雇う人を信用できるのか?

これ自体がまず最大の困難である、どうしてその人を信用できるのか?
最初はするシルバーセンターとかで信用した
今は個人ではなくそうした組織が信用機関になっているからだ
その後は個人と個人の関係になっていたのである
シルバーセンターとは関係なくなっていたし別にシルバーセンターを通していないから責任はシルバーセンターにはない
現実にそう契約に書いてあるからだ、勝手にシルバーセンター通さないで雇うなと書いてあるからだ
そこが錯覚しやすいことだった
そして田舎のことだから信用することがあった
小さな領域に住んでいるからである
そこで盗まれて大損失になった

ここで私が意識したことは人を雇うことは本当に雇う側にとっては重大なことである
それは家なら家のことをまかすとまでなるからだ
だから家の中に入れる仕事は本当に信用が一番大事である
ヨ−ロッパなどでは信用をどうして得ているかとなると召使というのは前に雇われた家のことを知りそのことで正直に勤めていれば信用ができていた、それは今の履歴書みたいなものかもしれない
そういうことは雇う方で情報が入っていたからできた
要するにその人となりがわかって雇っていたとなる

雇うとはまずその人を信用しないかぎり本当はできない

そして雇う方では「頼みますよ」という切実な思いがあって頼んでいる、でも雇われる人はそのことを意識しない
いくら金がもらえるのか?それしか頭にないのである
そして二番目の人はただ金だけをもらうために来ているだけになった
なぜなら三日に一回皿を洗うにしても二三枚であり後はなにもしない
何をしにくるのか?金の請求である
契約でいくら払うといって雇ったがその倍以上請求する
払わなくても良かったがいろいろ事情があって雇う側の裁量で払ってきた
その時はまだ金の余裕があったからである
別に雇われる人がどうであれ雇う側でよしとすれば働かなくても払う人はいる、それは自由なのである

ここでの雇う雇われる関係は会社とは違う、個人と個人の関係になる
そうすると一番大事なのはどうして信用するかなのである
これが最高にむずかしい、実は雇うということはその人を信用したということなのである
そのことで決められた金を払うとなる
まず履歴書でも見て面接してその人を見て雇うか決める
雇った時点で給料を支払う時すでにその人を信用したのである
この信用するということがいかに重要か?
雇われる人は感じないのである
ただ時給いくらで働かせるだけでありできれば働きたくないとなっているからだ
でも雇う方は実は切実なのである

特に個人対個人になるとそうである、雇う方では困っている
それで他人に頼むとなるまず信用できるのか、家に入れて大丈夫なのか?そのことが最大の問題になるからだ
でも家に入れた時点で雇った時点で実はその人は信用されたのである
でも雇われた人はそうして信用されたことを意識していない
会社でコンビニとかで雇われる場合でもそうだろう
ただ時給をもらうために雇われたとしか意識しないだろう
ただ他人の家に入ることはまた違っている
そこで一番大事なのは信用なのである

雇う方では「頼みますよ」という切実な思いがある
雇われる人はただ時給として金をもらえばいいとしか考えないのである、これだけの金をもらったからこれだけのことをする
それ以上のことはしないとなる
でもその人は例えば三万で頼んだとすると確実に前借りするしなにかにやと要求する、それも電気がとめられたとか水道とめめらたかとか借金とりがきたとか次から次と切迫したことを言う
それで結局必ず倍以上の金額を要求する
それも事情があったから払っていた

「この金額で頼みますよ」と頼んでもそれでは絶対に終わらない
三万で頼んだら三万以上を要求されることがわかると頼めなくなったのである。
三万は六万になるとなれば頼めないのである
金を払う方になるとそうなる、雇う側になるとそうなる
雇う側でも金が無限にあるわけではないからだ、でも雇う人は何かそういうことを感がない,とにかく多くの金をもらいたいとなるのだ,でも金には常に責任がついてまわっている
金をもらえばそれは責任になる

自分の場合は個人と個人の関係の雇用だから会社ではないからかなり違っているが基本は同じなのかもしれない
まず雇う側としては信用しないと雇えないのである
そして雇うということは信用されたことだが雇われた人はそういう自覚はない、ただ時給をもらえばいい、できるだけ働かなくてももらえばいいしかないのである
そこであまり雇われる人は責任を自覚しないのである
頼まれるということはその人を信頼することだったのである

それでなぜ自分は病院に一か月入院したとき親戚の人に知らせないで頼まなかったのか?
それはその人が事業の失敗をして多額の借金をしているからである
もし頼んだら事業家だからその金が大きくなるからだ
すでに金を貸してもいるからだ、そこで頼まなかったということは信用しなかったことである
でも結果的にそのことで大金を失った
だから自分には頼むという人がなかったとなる、信用して頼む人がいなかったのである

人間は頼むとか頼まれるとかを簡単に考えている
ところが頼むという時切実なことがあり何とか助けてくれとかで頼むことがある
でも頼まれる人はそのことを重大なものと考えないのである
雇用関係が今は対等だということにもなっている
それより雇う側の人が責任があり責任が課せられている
そのことを意識しないのが雇われる側である
こういうことは大きな組織でも国とかの単位になるとそうである
指導する立場になるともきすごい責任が課せられることになる
その決断が判断が誤れば戦争のように3百万人とか死ぬことになるからだ、その決断する立場になったら空恐ろしいことだとなる
もうすでにそれは一人ではできない、だから戦争では国民全員が責任あるとして誰も責任は問われない、原発事故でもみんな責任があるとして誰も責任を問わないのである
国民に責任があるとしたら誰も責任は問われないのである
でも必ず誰かが責任をとらされる、3百万人が死んだということで国民が責任をとらされたのである

人を雇うって、想像以上に気力も体力もお金も必要なのは事実。

これは本当にそうである、もう自分はそうした力もない、もともとなかった、ただ事情と成り行きでそうなっただけである
本当に今は雇うと雇われ関係は対等でありむしろ雇う側の責任の方が大きいから雇うことは普通の人はできない
これは指導する人と指導される人の関係にも似ているかもしれない
指導する方が責任が重大であり疲れる
ただ支持される人は責任もなく楽だとなる
でも何かをまかせられる、たのまれることは雇われる方でも実は「あなたに頼みますよ」ということで信用して頼む切実なものがある、でも頼まれる人はそれを感じないのである

だから人間は雇う人雇われる人がいるというとき雇われるだけではなく雇う人の身にもなってみるべきだとなる
そうすれば両方の気持ちがわかるから責任も感じるとなるからだ
結局こういうことも経験しないとわからないのである
雇う人になることは普通は少ない、みんな雇われる人になっているとすると雇うことがどういうことかわからないのである
雇うことも雇われることも実は個人と個人の信頼関係だということだということは基本にある
それがないかぎり両者が基本的にうまくいかない
ただ会社とかなると組織になるとまた違っているが基本に個人と個人の信頼関係として雇用関係はあるとなる
会社だと個人とか雇う人が誰なのか?それが見えないから現代の雇用関係は集団的相互信頼関係に変わったともなるが基本にはやはり信頼関係は個人と個人にある


文章を引用しているがurlだけではない、文章そのままを検索に入れるとたいがいでてくる
だから著作権違反はすぐに指摘できる
引用でも別に相手が指摘しないとか引用側の文が主になっていれば違反にはならないのである
ただインタ−ネットではどこに引用されているかもわかりにくいからかなり違反があるとはなる



posted by 老鶯 at 11:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題
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