彼岸に虫の音に秋の野
(7年は過ぎた海老の浜など)
海老村のあった所に松が生えて育つ
昨夜の分
雨しとと死者を思いぬ白木槿
故郷の木の根元にそ虫の声
今日の分
大海に秋の陽昇り鵜の飛びぬ
陽の昇り残月あわれ秋野かな
雨しとと死者を思いぬ白木槿
故郷の木の根元にそ虫の声
雲隠る月に亡き人思ふかなまた光りいで死すともあらじ
この里にともにしあれとあわれかなひびきあいにし虫の声かも
虫の音を今日もここにし聞き入りて近くに住める人思ふかな
耳澄まし虫の音聞きぬ我一人眠りにつきぬ町にしあるかな
耳澄まし今夜も聞きぬ虫の声草深し里ともしびあわれ
(昨夜の分)
今日の朝
津波より7年半過ぎ生い立ちぬ松も育ちて秋の陽さしぬ
津波にも御刀神社残りけり杉木立にそ秋の陽さしぬ
玄関に大岩構え妻亡くす人の住みける秋となるかな
昨夜も虫の声を聞いていた、夜でも歩いている、運動のためである
彼岸だとやはり墓参りであり死者には白木槿がにあっている
お盆ではない彼岸でもそうである
この町は一万くらいだけど河原は草深い、灯でも何かまだ里の感じがある、ただ震災以後は新築の家が何百件も建ったから都会化したのである、ただ灯あわれというときやはり田舎だとなる
これが隣の原町だとまた違っている、原町はやはり都会になるからだ
順序が逆になったが昨夜から今日の朝にかけての感想である
プログは日付順であり本当はその日その日に読むのがふさわしいとなる、俳句短歌とかはプログに向いていたのである
季語があり日本の季節は刻々変わっているからである
俳句はもともとそうした天候の報告として生まれたともなる
日本人の挨拶は天候になっているからだ
今日の朝は晴れたので海の方に行った、海老村は津波で消失した
そこは枯野になってしまった
そして残月が見え海からは陽が昇ってきた
そこには新しく松が根付いて育っていた、津波から7年半過ぎたのである、もうこれだけ育った、枯れた松もあるが新しく生い立つ松もあった、これは津波で塩水をかぶった松とは違うから枯れない
塩分があっても育つ松である
他に松の苗を植えたがそれは苗である、その苗が育つのは30年とか先になるから見れない
ただ自然に育った松がある程度大きくなったのは見れるもしれない
そのうち寿命になる方が早いとなる
いづれにしろ海老村の跡は秋野になった
そこに残月が出て海からは太陽が昇る
右田浜は風力発電の風車である、こんなに変わることが未だに信じられないのである
右田の御刀(みと)神社は残った、あそこまで津波が来たしあそこの家はかなり津波の泥をかぶった、それで京都辺りから大阪からボランティアが来て泥をかきだす作業をしてくれた
その車のナンバーからわかったのである
まず津波の傷痕はまだ消えていないのである
それだけの災害だった、おそらく十年過ぎてもそうである
原発事故も重なってこの辺では傷跡は消えないのである
北海道の方で地震で被害があったがスーパーとかツルハで募金しているが千円札が結構入っていたのには驚いた
この辺ではやはり助けてもらったしそれなりに金が入っている人があるからお返しとして金を入れているのかもしれない
ボランティアも相当に来たからである
知っている人の家は留守である、白内障の手術で二か月仙台に入院している、今日見たら玄関に大きな岩があった
何か岩のような感じのがっちりした人である
でも妻亡くして淋しいと一人で住んでいるのである
そういう人もまた多くなっている
今日は晴れたが昨日は寒かった
本当に秋らしくなった、今日は晴れたからでかけたいとなる
でも遠くには行かない、仙台にすら今年は一回しか行っていない
何か出かけたくないというのもこれだけ旅したの不思議である
ただ思い出す旅はしている、思い出す旅も実際は旅の継続だったのである、とにかく人間は忘れやすい、だから旅を記憶することが意外と大事である、そのことを書いてきた
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